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2007年5月30日 (水)

164: 誓い

開闢以来戦争がなかったオーストラリアの若者が
志願して兵士になり ガリポリ(トルコ)に赴く
時は1915年 第一次世界大戦の最中・・・・・

Gallipoli_004

原題 : Gallipoli

監督 : ピーター・ウェアー
製作 : ロバート・スティグウッド  パトリシア・ロヴェル
製作総指揮 : フランシス・オブライエン
原案 : ピーター・ウェアー
脚色 : デイヴィッド・ウィリアムソン
撮影 : ラッセル・ボイド

キャスト : メル・ギブソン マーク・リー  ビル・ハンター  ティム・マッケンジー  デイヴィッド・アーギュ  ロバート・グラブ  

製作年 : 1981年
製作国 : オーストラリア

第一次大戦下、当時イタリアとトルコの国境近くの激戦地だったガリポリ戦線に赴いた2人のオーストラリア兵を中心に、彼らとその仲間の若者たちの青春、友情、愛国心を描く。オーストラリア映画としては初めてアメリカ資本で作られ、マニラ国際映画祭特別審査員賞を受賞した。

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感想にまじってネタバレあります。鑑賞前のかたが読んでも映画は楽しめる程度のネタバレとは思いますが、自己判断で読み進めてくださいネ。

 

この映画は邦題は『誓い』だけど、原題にある『Gallipoli(ガリポリ)』の戦いを、オーストラリアの兵士を中心に描いている。

オーストラリア西部で短距離ランナーとして大会で走る姿。志願兵になるために、青い空と礫砂漠の二色に彩られた景色の中を二人の若者がパースに向か うその姿、「なぜ志願なんか」「闘うのはイギリスのためじゃない 自分のためだ」という言葉。エジプト・カイロの軍事訓練キャンプでピラミッドを背景に フットボールをする姿、ピラミッドを見て「人間最初の死への挑戦だ」という言葉。

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途中までの画面から伝わってくるのは、明るいと言ってもいいくらいの(あたしには不思議にも感じられる)空気感だ。オーストラリアには徴兵制が無 かったので志願兵になる、それにオーストラリアは開闢以来戦争はなかったので‘戦争’を具体的に知らない、それからくる前向きで楽天的な空気感だ。戦地に 行くまで、走ることを通じて彼らは友情を育み、1915年といってもなんら現代と違わない。

だからこそ余計に戦地での彼らには、ハラハラドキドキさせられた。エジプトから海を渡ってガリポリ(トルコ)へ、白く乾いた土、銃弾が飛び交う戦地 の塹壕・・・足が速いということは、戦地でなければ陸上選手になれるのに、戦地では伝令役になるなんて・・・見ているだけで自然に体に力が入る。

 

戦争時代を描いているものの、観終えて残ったのは‘友情’や‘青春’から感じられる、少し甘酸っぱいような感覚だった。そんな感覚を感じる一方で、 第一次世界大戦の一部を‘戦争を知らなかった’オーストラリアを中心に描いているということが、とても悲劇的で興味深い映画だった。ランナーとして走る 姿、礫砂漠の風景、ピラミッドの下で軍事訓練キャンプのテントが張られている様子、それらと「戦争」はなんて不似合いなんだろうと感じ、そして戦地の塹壕 での悲惨さ・・・。

「戦争」が似合う場所なんて、存在しないですね。

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映画は1915年5月のオーストラリア西部から始まり、カイロでの訓練で7月だった。

 

【第一次世界大戦】

第一次世界大戦は、1914年から1918年にかけて戦われた世界規模の大戦争である。ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の大多数の国が参戦した。

【開戦】

この戦争における最初の戦闘はアフリカおよび太平洋でおこなわれた。1914年8月8日に英仏の連合軍がドイツ保護領のトーゴランド(現在のトーゴ)に侵入した。同 月10日には南西アフリカよりドイツ軍部隊が英領南アフリカ(現在の南アフリカ共和国)を攻撃した。8月30日にはニュージーランドが太平洋のドイツ領サ モア(現在のサモア)を占領した。また9月11日にオーストラリアの部隊がノイポンメルン島(ドイツ領ニューギニアの一部、現在のニューブリテン島)に上 陸するなど、数か月の内に協商国側は太平洋のドイツ軍部隊を降伏させた。これに対しアフリカでは戦争終結まで散発的な戦いが継続された。

【オーストラリアの参戦】

イギリスは伝統的にブリテン島対岸の低地諸国を中立化させる政策を実行してきた。1839年のロンドン条約において、イギリスはベルギー独立を保証 していた。そのためドイツがベルギーに侵入したのを確認すると、イギリス政府は外交交渉を諦め、8月4日にドイツに宣戦布告した。また、1867年に自治 領となっていたカナダも、宗主国イギリスに倣い参戦した。同様にオーストラリアやニュージーランドも参戦することとなる。World_war_i_1914_08_04 1914年8月4日時点の両陣営 連合国(緑)、連合国の植民地と占領地(薄緑)、同盟国(橙)、同盟国の植民地と占領地(肌色)

【オーストラリアの歴史】

1770年にイギリス人のジェームズ・クックが温帯のシドニー郊外ボタニー湾に上陸して領有を宣言、入植が始まる。アメリカの独立により、1788 年からアメリカに代わり流刑植民地としてイギリス人の移民が始まった。初期移民団1030人の内、736人が囚人でその他は殆どが貧困層の人間であった。 また、当時は軽犯罪でもオーストラリアに流刑されたという。

1828年に全土がイギリスの植民地となり、開拓が進む。内陸を探検し、農牧地を開拓する。その段階で先住民のアボリジニーから土地を取り上げて放逐し、反抗者は(時には反抗しない者も)殺害した。1830年までに純血のタスマニア先住民は絶滅させられた。

1901年にイギリスから事実上の独立をするが、独立後もイギリス国王への忠誠からイギリスの戦争には度々参加、第一次世界大戦ではオーストラリア&ニュージーランド軍団(ANZAC)として英仏軍と共にガリポリの戦いに参加し、オスマン帝国軍との激戦を経験した。

オーストラリアでは現在、ガリポリへ上陸を開始した4月25日をアンザック記念日としており、これらの戦争において死亡した兵士をたたえる様々な式典が行われている。

【アンザック軍団(オーストラリア・ニュージーランド連合軍団)】

アンザック軍団は開戦と同時にオーストラリア人とニュージーランド人で編成された軍団で、両国とも徴兵制がないためすべて志願兵で組織された。志願制は日本と比較すると想像が難しい。要するに1945年までの日本は当時の基準からも著しく戦争(かつ長く厳しい)の多い国だった。ほとんどの国は第1次大戦以前、長い間戦争を経験していない。オーストラリアには開闢以来戦争はない。この条件で志願となると、戦争と長距離旅行、訓練(実弾発射つき)と冒険がないまぜとなる。

このため常備軍・徴兵軍と異なり、訓練が必要でエジプトに駐留し待機していた。またアンザック軍のエ ジプト輸送までの護衛には日本海軍が当たっていたことはあまり知られていない事実である。(←オーストラリアには商船しかなかったため。)アンザック兵士 はまた帽子が平折れでまた片側をひもで止めていた。この異相はイギリス本国軍の軽蔑(日本海軍水兵はこれが戦闘服と思えなかったらしい。)を誘うに十分で、本格的戦闘に耐えるとみなされなかった。

【ガリポリの戦い】

ガリポリの戦いは 第一次世界大戦中、同盟国側のオスマン帝国(トルコ)の首都イスタンブール占領を目指して連合軍が行ったガリポリ半島への上陸作戦。ガリポリは現在トルコ 語でゲリボルと呼ばれているダーダネルス海峡の西側、エーゲ海からマルマラ海への入り口にあたる半島の英語名で、イギリスではこの戦いをダーダネルス作戦 と呼ぶ。

連合軍は、当時国家として末期症状であったオスマン・トルコ帝国軍を軽んじて短期決戦を想定して挑んだものの、トルコ側の予想外の頑強な抵抗にあっ て 多大な損害を出して撤退、作戦は失敗に終わったが、陸・海・空3軍の総力を結集させた(空軍戦力はまだ弱体であったが)大規模上陸作戦としては世界初と 言える戦いであった。また連合国軍に参加したオーストラリア、ニュージーランドにとっては国際的な桧舞台への初登場となった。それがアンザック軍団(オーストラリア・ニュージーランド連合軍団)である。

Gallipoli_19151915 年5月から7月にかけて連合軍、トルコ軍ともに何度も攻勢を展開して戦局を打開しようとしたが、どちらも敵側に阻まれ戦線が大きく動く事はなかった。5月 には上陸部隊を支援していたイギリス戦艦3隻が魚雷攻撃によって相次いで撃沈されたため、海軍は戦線を離脱した。8月に入るとアンザック入江北側のスブラ 湾に連合軍新鋭2個師団が上陸し、攻勢を試みたが、トルコ軍がいち早く高地を占拠したため、ここでも橋頭堡を確保する以上の進展は見られず、塹壕戦となった。アンザック入江とスブラ湾の橋頭堡を連絡させようとする連合軍の最後の8月大攻勢も失敗に終わり、トルコ領内へのさらなる進撃は望めない状態となる。

10月に入るとイギリス政府はガリポリ作戦の撤退を検討し始め、撤退に反対する司令官のハミルトン将軍を解任、サー・チャールズ・モンロー将軍に交 代させた。この月、これまで中立だったブルガリアが同盟国側に参戦することが明らかになったため、ドイツ軍は陸路でトルコとの連絡が可能となり、連合国軍 はドイツの超大型大砲でガリポリの橋頭堡が砲撃を受ける危険も出てきた。また10月5日にはギリシャ領サロニカ(テッサロニキ)に英軍が上陸して地中海方 面で第二戦線が形成されたこともあり、モンロー将軍はついに撤退を決意した。撤退が決定された時、ガリポリ半島には連合軍14個師団が展開していたが、ア ンザック入江とスブラ湾では12月7日から順次撤退が行われ、12月20日順調に撤退を完了した。ヘレス岬は将来の攻撃のため、橋頭堡を維持する計画で あったが、12月27日にはヘレス岬からの撤退も決定され、1916年1月9日には最後の英軍部隊がヘレス岬を離れた。

 

この戦いによる各国軍の戦死・戦傷は次のとおりである。

トルコ軍      戦死86,692人、戦傷164,617人
イギリス軍     戦死21,255人、戦傷52,230人
フランス軍     戦死約10,000人、戦傷約17,000人
オーストラリア軍  戦死8,709人、戦傷19,441人
ニュージーランド軍 戦死2,701人、戦傷4,852人
インド軍      戦死1,358人、戦傷3,421人 
カナダ軍      戦死49人、戦傷93人

これ以外に、長い塹壕戦のため約140,000人の連合軍兵士が腸チフスや赤痢で病死したと推定されている。

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コメント

はじめまして、ぽむまんといいます。

突然ですが、私のブログでこちらのサイトを紹介しました。

私のブログは『スロー生活で不幸になる20代女』です。

URL:http://pomman.blog96.fc2.com/

勝手ながらトラックバックさせていただきました。

どうぞよろしくお願いしますm( _ _ )m

投稿: ぽむまん | 2007年6月25日 (月) 05時54分

!!注意!!

私のトラックバックの下の英文はどうやらウィルスの『トロイの木馬』のようです!!

クリックしないように注意してください(><)

ちなみに私は今駆除してます(汗)

それでは失礼します(^^;)

投稿: ぽむまん | 2007年6月25日 (月) 06時16分

★ぽむまんさん、コメ&TB、ありがと。^^

投稿: さくらスイッチ | 2007年6月26日 (火) 00時37分

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