原作漫画『夕凪の街 桜の国』を読んで・・・
原作漫画を読んで、映画と比べて感じたことがあった。それは、大筋は同じなんだけど、原作漫画では‘被爆’を、日常生活の何気ない会話に盛り込んで いて、‘悲劇が日常に忍び寄っている日’ではあるけど、空気感や間に、映画よりもほのぼのとした笑える要素が取り込まれていたことだ。‘被爆’が描かれて はいるんだけど、「夕凪の街」「桜の国」のどちらも、基本は日常のテンションが貫かれていて、映画のように「夕凪の街」に“泣きの要素”が色濃くでている シーンは無い。
だから、‘昭和30年に生きる’皆実が、等身大にそして身近に感じられ、現代に生きる七波が、‘被爆二世である’がゆえの想いも身近に感じられた。
原作は、読者が自分のペースで読めて、気になるところを繰り返し読めるから、漫画ならではの、読者に間接的に想像させるような表現になっていた。それゆえに、映画のようにボロ泣きは出来ないけれど、読み終えた後にじわじわっと効いてきて、あたしのココロの中に定着した。
映画ではボンヤリとした輪郭で、なんとなく分かったような分からなかったような気がしたけど、原作漫画を読んで腑に落ちた。以下、あたしが映画では???で、原作漫画で「あ、なるほど」と感じたことを書いてみた。
◆ 2007.7.7 映画『夕凪の街 桜の国』を観て・・・ ←映画の感想
以下、大いにネタバレなので、映画を未見のかたは読まないでね。
1) 皆実が“自責の念”を感じる理由。
ぜんたい この街の人は 不自然だ
誰もあの事を言わない いまだにわけが わからないのだ
わかっているのは「死ねばいい」と 誰かに思われたということ
思われたのに生き延びているということ
そしていちばん怖いのは あれ以来
本当にそう思われても仕方のない人間に自分がなってしまったことに
自分で時々 気付いてしまうことだ
そっちではない
お前の住む世界は そっちではない と誰かが言っている
(↑ここまでは 映画でもあった)
八月六日
水を下さい 助けて下さい
何人見殺しにしたかわからない
塀の下の級友に今助けを呼んでくると言ってそれきり戻れなかった
救護所には別の生物のようにまん丸く膨れた集団が黙って座っていた
そのひとりが母だった
七日目には霞姉ちゃんと会えた
死体を平気でまたいで歩くようになっていた
時々踏んづけて灼けた皮膚がむけて滑った
地面が熱かった靴底が溶けてへばりついた
わたしは
腐ってないおばさんを冷静に選んで 下駄を盗んで履く人間になっていた
あの橋を通ったのは八日のことだ
お父さんも見つからない妹の翠ちゃんも見つからない
鼻がへんになりそうだ
川にぎっしり浮いた死体に霞姉ちゃんと瓦礫を投げつけた
なんども投げつけた
(↓ここからは 映画でもあった)
あれから十年
しあわせだと思うたび
愛しかった都市のすべてを人のすべてを思い出し
すべて失った日に引きずり戻される
お前の住む世界はここではないと
誰かの声がする
映画ではボンヤリとしか感じられなかった、自責の念を持つに至った皆実の原風景を、漫画では輪郭を持ってハッキリと感じることが出来た。皆実の“不幸”の複雑さが伺われて、切なくなった。
2) 映画では、打越さんが皆実の被爆体験を聞きながら、「もういいよ・・」と皆実を気遣って抱きしめ「生きとってくれて ありがとう」と言うんだけど、その態度が、まるで原爆のことを何も知らない人のように感じられて、違和感があった。
「ハンカチ」をプレゼントして、キスしようとした日の、翌日朝。
場所は皆実と打越の職場。打越 「・・・・・・・・・・」
皆実 「おはようございます」
打越 「ごめん・・・ もうしないから」
皆実 「・・・打越さん
・・・・・教えて下さい
うちは この世におってもええんじゃと 教えて下さい
十年前にあったことを 話させて下さい
そうしたらうちが
死なずに残された意味が分かるかも知れん
そうしたら打越さんに逢うた事とかを
姉や妹やみんなにすまんと思わんですむかも知れん」打越 「うん・・・・・そうじゃないか思うた
うちもこっちに住んどった叔母が 原爆で亡くなっとってのう
ばあちゃんも広島の子に
何かしてあげとうて 草履編んだんじゃ」皆実 「・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
ほうね・・・・・・・・・・」打越 「・・・・・平野さん」
皆実 「ハー なんか体の力が抜けてしもうた」
打越 「生きとってくれて ありがとうな」
そしてそれきり力は抜けっぱなしだった
映画にはなかった「うん・・・・・そうじゃないか思うた」という台詞があってはじめて、「生きとってくれて ありがとうな」という台詞が皆実の心に届いた、という実感をあたしは持てた。皆実の心に届いたからこそ、「そしてそれきり力は抜けっぱなし」になれたんだよね、うん。
この告白は、被爆から10年を経てなお消せない「苦悩の告白」であると同時に、「被爆者である」ことを好意を寄せる相手に、改めて言葉として伝える行為でもあり、皆実自身が「原爆の光景」を、「思い出したくない」「忘れてしまいたい」ものから「忘れられるものではない」「忘れてはいけない」ものとして、勇気をもって決意した証でもある。
そう思うと改めて、「うん・・・・・そうじゃないか思うた」「生きとってくれて ありがとうな」という打越の言葉が、とても深いものとしてあたしのココロに響いた。
それに、「ばあちゃんも広島の子に 何かしてあげとうて 草履編んだんじゃ」という話を、その時に言わなかった打越のやさしさも、あたしのココロに染み入る。
このシーンから感じられる打越の皆実に対する想いが、あたしを嬉しくさせる。
でも、あたしは嬉しさを感じる一方で、「そうじゃないか思うた」という台詞で、皆実の苦悩が特別なものなんかじゃなくて、その光景を経験し生き残った被爆者にとっては、誰もが抱えうる苦悩なのかもしれない・・・とも感じ、あたしは悲しくもさせられた。
映画だと、おいおい打越~「もういいよ」って何だよ、それ以上つらいことを思い出してまで話さなくてもいいよってことぉ~?、打越~皆実が今話したこと理解したの~???、と思っちゃって、打越はちょっとキザな感じなだけでイマイチだったのよねぇ。
ま、それは、「そしていちばん怖いのは あれ以来 本当にそう思われても仕方のない人間に自分がなってしまったことに 自分で時々 気付いてしまうこと」という告白を、あたしが理解できなかったから、打越も理解しきれなかったんじゃないか・・・って思っちゃったんだけどね。
だって、映画では、妹をおぶって被爆地を歩く皆実の姿は健気で、可哀想で、その後も倹約しながら、弟・旭に会いに行くお金を貯めていて、なんで「そう思われても仕方のない人間」って思っちゃうのか、あたしにはピンとこなかったのよね。被爆して差別の目でみられたりすると、一種のマインドコントロールのようなもので、そう思い込んでしまったのかと思ってしまった。
「全滅のクラスと聞いておりました」怒りを秘むる亡友の母の瞳。「県女は全滅と聞いた」「うちの子は熱があったのに、お国のためにと(作業に)出た。なのにあなたは…」。老いた遺族の言葉が胸に刺さった。 本文・・・
映画でも原作漫画でも、このシーンがとても前向きで明るい前途を想像させるからこそ、この後の展開の悲しみが増幅され、その理不尽さにいいようのない怒りを覚える。この怒りを、どう昇華したらいいのだろうか・・・・・・
3) 入院している弟・凪生のお見舞いに東子と一緒に行った小学生の七波が、‘桜吹雪の出前’をしているシーンに続いてあった、おばあちゃん(皆実の母親)が倒れたシーン・・・・・フラッシュバックじゃないのに、フラッシュバックのような唐突感があって、なんかそのシーンだけ浮いた感じで、置き去りにされて変だった。でもまぁ、そんな演出なんだと思った。
原作漫画では・・・
病室は 桜吹雪・紙吹雪で 盛り上がっている
七波 ゴン と後ろからおばあちゃんに 頭を叩かれる
怒ってるおばあちゃんのもと
七波は東子と一緒に桜の花びらを掃除する自宅へ帰り 東子の家にもおばあちゃんと一緒に謝りに行き
その帰りと自宅での会話祖母 「まったく 病院には来るなと言うたのに」
七波 「はあ・・・」
祖母 「凪生のぜんそくがよけい悪うなったらどうすんね
ほいで?あんたは大丈夫なん 七波」七波 「えっ?」
祖母 「鼻血出したんじゃろう?」(←原爆症を心配してる・・・)
七波 「ああ・・・ おばあ様 急にめまいが」
祖母 「・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・」
おばあちゃん しゃがみこむ七波 「おばあちゃん? ごめん うそだよ」
ぎゅう~~~ 七波 ほっぺをつねられる祖母 「それくらい わかっとる
めまいがするんはこっちです」七波 「はかられた・・・」
あの日(↑)の検査の結果の悪かった おばあちゃんが死んだのは
その夏のことだった
原作漫画で上記のシーンは、「桜の国(一)」に納められている。「桜の国(一)」は、七波がまだ小学生の時で、全体が子供目線で描かれている。そして、母親と祖母の死は間接表現*のみなのと、ラストの七波のモノローグが相まって、「桜の国(一)」は回想っぽい仕上がりになっている。
*母親の死は‘表札’や‘仏壇’で、祖母の死は‘検査結果を顔の無い父と祖母がやりとりする様子’や、‘七波のモノローグ’で語られるのみになっている。つまり、彼女が‘忘れたい嫌なこと’は、間接的に描かれているのだ。
4) 東子が急に気持ちが悪くなった理由。(これは、あたしの映画の理解不足。映画だけでも理解できたこと。)
七波 「ほら 桃もあるんだ ( くすねてきたぞ・・・ )
どのへん見てきた?」東子 「・・・平和資料館」(←壮絶な写真の展示もあります)
七波 「それだけ?ずいぶん熱心に・・・」
東子 「・・・・・・・・・・
おえ~~~」七波 「ぎゃあー 」
七波と東子 ホテルの部屋にに移動
東子 「わたし看護師失格かなあ・・・」
七波 「・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・」東子 「あれが家族や友達だったらと思っただけでもう・・・・・」
七波 「関係ないよ そのほうがまともなんだよ 多分」
5) 七波が東子を連れてホテルの部屋に入るとき、ふいに母親が倒れているシーンがフラッシュバックされていたけど、そのトリガーがわからなかったので、なんか唐突感があって違和感を感じてしまった。
漫画では“鍵”が象徴的に使われるシーンがでてくる。(映画にもあったのかな?記憶には残ってないけど)
まだ小学生の七波が、集合住宅の自宅に続く階段を上る途中、一緒に帰ってきた東子が、向かいの一軒家に帰った声が聞こえる。「ただいまあ」という東子の声、「おかえり東子」という母親の声。
そんな声を背に受けて、七波は首に掛けている“鍵”を取り出し、自分で鍵を開けて帰宅する。七波の「ただいまー」という声に、答える声は無い。連絡帳のできごと欄には、「おばあちゃんは弟と病院です。お父さんは会社です。」という言葉が数日間連続して書かれている。そして今日のできごと欄にも・・・
「桜の国(一)」で、“鍵”が、誰もいない家の象徴のように、3コマにわたって描かれていた。「桜の国(二)」でも、寝込んでしまった祖母を思い出すシーンで、同じ“鍵”が描かれていた。
で、広島のホテル。ホテルの部屋を空ける“鍵”と、一緒にいる“東子”が、フラッシュバックのトリガーになっていることが分かった。
6) 七実が「桜の国(東京都中野区)」を嫌う理由。(これも、あたしの映画の理解不足。映画を見てる最中にボンヤリ理解(母親、祖母が死んだ街だから・・・それでそんな風になるんだ・・・)できたし、見た後で思い返せば、もう少し深く納得できたと思う。)
「・・・・・東子ちゃん もうねた? ねたよね?
・・・・・母さんが三十八で死んだのが
原爆のせいかどうか 誰も教えてはくれなかったよ
おばあちゃんが八十で死んだ時は
原爆のせいなんて言う人はもういなかったよ
なのに
凪生もわたしも いつ原爆のせいで死んでもおかしくない人間とか
決めつけられたりしてんだろうか
わたしが
東子ちゃんの町で出会ったすべてを忘れたいものと
決めつけていたように」
七波にとって「桜の国」は、母と祖母が亡くなった街だから、そしてそれは被爆に、ひいては自分が被爆二世*だということにつながるから、その街であった出来事を思い出したくなかったんでしょうね、きっと。七波にとって、母の死、祖母の死は、原爆に繋がっている・・・そして、密かに自分自身の死に繋がっているかもしれないという漠然とした恐怖や、それに追随した自分でもよくわからない感情から、目を背けたかったんじゃないのかな。
たぶん、母と祖母が亡くなった理由が被爆によるものじゃなかったら、「桜の国」の思い出すべてを封印したいとまでは、思わなかったんじゃないかな?そして、被爆者を見る世間の目・・・
ただ 僕のぜんそくですが 環境のせいなのか
持って生まれたものなのかは 判りません-----
いつ原爆のせいで 死んでもおかしくない人間とか
決めつけられたり-----
父さんこそなんで黙って広島に行ったりすんの?
わたしと凪生に気を遣ってるつもりなの
終わったはずの戦争が、戦争を経験してない現代の個人の身の上に、深い傷跡を残すのに悲しくさせられる。・・・でも、七波のたくましさ、東子のやさしさ、皆実の五十回忌を偲ぶ父親(皆実の弟)の姿に、救われる。
-----
*被爆者の子は被爆二世と呼ばれるが、被爆の遺伝的影響については、未だ科学的な立証はされていない。2007年、日米共同機関放射線影響研究会は被爆二世による遺伝的な影響は見られないと発表したが追跡調査も検討されている。
-----
*原水禁 2005年12月08日 被爆二世問題院内学習会開かれる
要請書
厚生労働大臣 川崎 二郎 様
2005年12月6日 全国被爆二世団体連絡協議会 会長
1945年8月6日、9日の原爆は20万人以上の人々を殺傷したばかりか、生き残った被爆者にも放射能による後遺症という苦しみを背負わすことになりました。しかも、原爆の恐怖は被爆者のみに止まらず、それらの被爆者を父や母・祖父母として生まれた「被爆者の子ども・孫」すなわち「被爆二世・三世」の問題として引き継がれていきました。
原爆被爆の放射能の影響という観点からは「第5の被爆者」であるといえるわたしたち原爆被爆二世は、今、全国に30万人とも50万人ともいわれています。被爆者と同じような苦しみ、悩みはそのまま未来世代へと引き継がれていきます。
被爆者が放射線障害に苦しんだように、被爆二世・三世も同様の苦しみを持ち、あるいは健康に対する不安を持ち続けています。特に、親・祖父母と同様の疾病に冒されたときの不安は図り知れません。
また、原爆被害者の受けた放射線は、原爆投下後に生を受けた被爆者の子どもすなわち被爆二世、さらにはその被爆二世の子どもの被爆三世の未来世代に何らかの遺伝的影響を与えるのではないかと考えられます。さらに、被爆二世は、親の被爆者の健康状態や社会的な厳しい状況に置かれている中で差別と貧困の中で生きてきました。社会生活上、十分な環境を与えられなかったといえるのです。
これまで、政府・厚生労働省は被爆二世・三世の健康実態調査を実施することは「不安を増大させ、差別を助長する」としその実施を拒み、対策をおろそかにしてきました。しかし、差別はこのような調査の結果生じるものではありません。調査の非科学性やあいまいさによって誤解と偏見が生まれ、さらに、問題を闇の中に放置することによって不安の増大や差別の助長を招くのです。現状の根本的な改善こそ差別を克服する道なのです。
このような深刻な事態があるにもかかわらず、政府・厚生労働省はほとんど何の被爆二世に対する政策を行ってきませんでした。さらに、被爆後半世紀を過ぎた今日では、被爆二世のみならず被爆三世が成人に達するようになり、被爆四世の誕生も迎えるに至っています。被爆二世・三世、そして、それ以後の世代の遺伝的影響の問題と健康不安も存在しています。また、そうした「不安」を背景にした社会的差別や偏見も根強いものがあります。 本文・・・
-----
映画では、被爆者である皆実の悲しみは伝わってきたけど、被爆二世である七波の苦悩が、イマイチ伝わってこなかったような気がする。
・・・そんなこと、ない?
漫画では、皆実の苦悩だけじゃなくて、七波の苦悩にもイロイロと考えさせられた。
7) 父親(七波の父親&皆実の弟)が七波に向かっていう台詞、「七波はその姉ちゃんに似てる気がするよ」。・・・まぁ、映画だからしかたないけど、麻生久美子(皆実)と田中麗奈(七波)が似てるって言われても無理あるなぁ、って思った。 。。。けど
映画では、見た目はムロン違ってたんだけど、皆実と七波は性格も違うように感じられた。でも漫画だと、どちらもマイペースで明るくて、性格が似てる感じに描かれている。
皆実は、原作漫画では、母親に「これ 何じゃ ぎょうぎのわるい」なんて注意されたりしておとなしい感じはしないけど、映画では、儚げでおとなしそうに感じられた。七波は、原作漫画でも映画でも、どちらも元気で明るい性格に感じられた。
漫画を読んで、父親の言う「七波はその姉ちゃんに似てる気がするよ」という台詞は、見た目じゃなくて“性格が似ている”という意味だったんだ、ということが分かった。
二人が似ているということが納得できると、
けれど こんな風景をわたしは知っていた
生まれる前 そうあの時 わたしはふたりを見ていた
(↑映画ではダイレクトに映像表現されてました)
そして確かに
このふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ
という七波のモノローグが、あたしのココロに効いてくる。
映画でも同じ台詞( 「七波と皆実が似てる」 「このふたりを選んで・・・」 )があって、“七波が皆実の生まれ変わり”っぽい雰囲気にはなってた ( と感じたのはあたしだけでは無いハズだ! ) けど、う~~ん、二人って全然似てないよなぁ・・・って思ったから、「このふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ」って台詞も、取って付けのように感じてチョットしらけちゃったのよね。
・・・いや 七波
父さんが広島で何をしてたかわかるか?
今年は父さんの いちばんあとまで生きてた姉ちゃんの五十回忌でな
それで姉ちゃんの知り合いに会って
昔話を聞かせて貰ってたんだよ
(↓ここからは 映画でもあった)
七波はその姉ちゃんに似ている気がするよ
お前がしあわせになんなきゃ
姉ちゃんが泣くよ (皆実は長生きして「しあわせ」になりたかった)
映画では、このシーンに“五人家族*だった頃の写真”が使われているから、「見た目」が似ているという話だと思った。家族写真は映画のオリジナルだから、原作漫画では、このシーンに家族写真は登場しない。 *原作漫画では、皆実の上に姉・霞がいるから六人家族。
8)・・・・・映画表現でも悪くはないけど
映画で、旭(皆実の弟)の母親が、「京花が洋裁の手伝いに住み込みでくる(=旭と一緒になる)」のを、結構キツイ雰囲気でいらないと言っていた。おまけに、旭の京花に対する気持ちが上手く表現できていなくて、本当に「洋裁の手伝いに誘っただけ」に感じられて、母親が断ったのを最初は「給料を払うほどの仕事が無いから」「狭い家に住み込みされても不便だから」かと、おバカなあたしは勘違いしちゃった。そして京花が帰り、せっかく疎開させたのに被爆者と云々と続き、親心を想うと複雑だなぁと感じた。
映画だと、旭の母親のやさしさとして、今ハッキリと言っておかなければ、変な期待を京花が持ってしまったらそのほうが可哀想だ、という考え方なのかなと思った。けど、うぅ~ん・・・・・。「幼い頃は離れて暮らしていたとしても旭は可愛い我が子、養子として育ててくれた水戸の両親にも申し訳ない・・・」って気持ちが前面に押し出されて、「京花は可愛がってはいるけど所詮は他人!」という雰囲気が、強烈に伝わってきちゃった。
原作漫画では、旭の母親は、直接その場で、言葉に出して拒否する事はしない。無言でその場の空気で伝えていて、京花は鈍くは無いのでそれを察する・・・。京花にしてみたら‘被爆者に対 する世間の目’に、幼い頃からさらされてきたわけで、察するというよりは、薄々分かっていた事だったのかもしれない。
原作漫画でも、息子を想う気持ち、育ててくれた水戸の両親を想う気持ちから、被爆者の嫁はいらない・・・そんな母親の気持ちも伝わってくる。 。。。けど、旭の母親が皆実の髪留めを見る後姿と、「うちはもう知った人が原爆で死ぬんは見とうないよ・・・・」という台詞から、原爆で亡くした娘への愛情に似たものを、京花にも持っているのが、ひしひしと伝わってくる。そして、「なんでうちは死ねんのかね」というその前の台詞とともに、親としての悲しみと被爆者としての苦悩が伝わってくるシーンになっている。
・・・・・旭の京花に対する純朴な気持ちも、いい感じに描かれていて、三人三様の複雑な想いが絡み合うシーンで、よく考えると重くて悲しいシーンなんだけど、なんか好きなシーンです。
旭 「同じ心配すんなら離れてするより
そばで居てしたほうが全然ましだって
母さんも言い出したし」
映画でも原作漫画でも、この台詞はあったんだけど、あたしは違う受け止め方をした。
映画だと、「結婚をしない旭が心配 それなら気に入ってはいるんだから京花でも・・・」という風に旭の母親は考えを変えたんだと思った。
漫画では言葉通り、「離れてしまっては京花の事が気にかかってしまう。心配でしかたがない。それを思うと、旭と結婚するなら京花がいい・・・」と、旭の母親は思ったんだと感じた。
その受け止め方の差は、「京花が洋裁の手伝いに住み込みでくるのを話すシーン」の描き方の違いからきていると、あたしは思っている。
旭が東京に転勤になり、旭と京花は一緒になり・・・。
映画を見たときは、本人の前で躊躇なく「来られても困る(被爆者の嫁はいらない)」とその場で言えて、その後で旭に説明する時の言い方から感じられるキツイ一面(拒否したことやその理由云々ではなくて、その言い方から感じられる性格)を持つ姑さんのもとで、おっとりした京花は、(映画には無いけど)お嫁さんとしては苦労したかもしれないなぁ・・・なんて、ちょっとだけ思った。 「同じ心配すんなら離れてするより そばで居てしたほうが全然まし」という台詞や、嫁と姑で仲良さそうなシーンもあったけど、洋裁の手伝いをいらないと言ったシーンのキツサをあたしは強烈に感じてしまったので、気持ちが引いたまま見てしまった。
漫画だと、それなりの苦労はしたかもしれないけど、短い人生を大好きな人達(姑+夫)と二人の子供と、幸せに暮らしてたんだろうなぁ・・・って、素直に想うことができた。京花は幸せな結婚生活を送ったんだろうな~、と想うことができると、
母からいつか聞いたのかもしれない
けれど こんな風景をわたしは知っていた
生まれる前 そうあの時 わたしはふたりを見ていたこんな風景というのは・・・
旭が京花にプロポーズした風景
義母の荷物を嫁の京花が一緒に持ってあげる風景
何気ない日常(布団を干す)風景
幸せいっぱいな感じの結婚した旭と京花がいる風景
という七波のモノローグが、あたしのココロに効いてくる。この幸せな風景に、被爆者・京花がいることに意味がある。幸せな家族を築くというのは、皆実が果たせなかった未来なのだから、自分が果たせなかった夢を京花に託した、とも受け取れるモノローグになっている。「被爆者であっても、幸せにれるはず ・・・幸せになって欲しい」という、皆実の想いが感じられる。
映画だと、皆実が京花を可愛がっている感じになっていたこともあって、 「このふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ」という七波のモノローグから感じられるのは、皆実が京花を可愛がっていたから「見ていた」「選んで生まれてこようと決めた」ように感じた。
-----
そして確かに
このふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ
というモノローグは、よく考えるととても重いものだ。京花は被爆者なのだから、その母のもとに生まれるという事は、「被爆二世」になるという事なのだから・・・。それを、「選んで生まれてこようと決めた」という七波は、前向きに自分の運命を受け入れた証とも受け取れた。
9)・・・・・映画表現でもグッときたけど
映画でも原作でも最初に、「ワンピースを型紙から作る」というエピソードがある。映画だと、「水戸にいる弟に会いに行くために、節約してお金を貯めているから、皆実はワンピースを我慢した」って感じに受け止めた。原作でも同じように受け止めたけど、もうひとつの理由がメインに描かれていた。それは、皆実の左肘から手首にかけて原爆による火傷があるから、半袖のワンピースを着たくないということ。(皆実は、左こめかみ隅にも少し火傷がある。)
同じ女性として、とても悲しくなる。
10)・・・・・映画と原作の登場人物の性格
皆実、旭(広島時代)、その母、京花、この四人は、映画と原作では性格が違うと感じた。七波、凪生、その父(=旭)、東子、この四人は、映画と原作でも同じ性格だと感じた。そのあたりが、映画と原作は大筋が同じなのに、伝わってくる雰囲気が大きく違っている要因かなぁって思った。
11)・・・・・
映画がイマイチに感じちゃったところだけを、原作漫画と比較しちゃったけど、映画は映画オリジナルでヨカッタところも沢山あった。“金魚”、“妹・翠”、“髪留め”、“五人家族だった頃の写真”、これらに絡んだエピソードはココロに響いた。
ま、イロイロと比べちゃったけど、漫画と映画は表現としても別物なんだし、映画には監督の、原作漫画には漫画家の、伝えたい想いが別にあるんだから、別物なのは当然だし、それでイイんだよね♪
感じ方は人それぞれだから、上記10項目に書いたことは、あくまで、あたしが感じた事に過ぎない。^^
-------------
原作漫画の巻末解説の一部
◆皆実らの暮らすのは、原爆ドームの北側にあった「相生通り」(現在の相生通りとは別物)という集落です。「原爆スラム」とも呼ばれ、原爆やその後の復興計画で、家や土地を失った人々が多く住んでおりました。その後、この集落は昭和五十二年に消滅し、現在は緑地*になっております。
*映画で、七波の父親(皆実の弟)が打越(皆実の恋の相手)と会ってた川岸の緑地。
◆原爆ドーム この漫画を描くにあたって気付いたのは、被爆直後からの写真を追うにつれ、原爆ドームが崩れ、小さくなっていた事でした。あの日の惨状を思い出すので壊して欲しい、という声も多かったのですが、結局、核兵器の惨禍を後世に伝えるという使命を帯びて保存される事が、昭和四十一年に決まりました。皆実の時代には、まだただの廃墟でしかなかったのだけれど、保存を決めた多くの被爆者の葛藤の末の勇気の象徴として、この建物は描きました。
◆お墓 広島でちょっと注意して見ると、「昭和二十年八月六日」の文字の並んだお墓はいくつもあります。そして、その数ヶ月以内の日付で並べて彫られている名前も多くて、心が痛みます。
原作漫画は三部構成になっています。
「夕凪の街」は、昭和30年(戦後10年)の広島を舞台に、被爆者自身・皆実の視線で「被爆」を描いています。
「桜の国(一)」は、昭和62年(1987年)春の東京都中野区を舞台に、被爆者の子供・七波(小学5年生)の視線で「被爆者」のことを描いています。
「桜の国(二)」は、平成16年(2004年)夏の東京と広島を舞台にして、過去を差し込みつつ、被爆者の子供・七波(28歳)の視線で「被爆者の子供」のことを描いています。
巻末にある作者の「あとがき」にも、とても印象的な言葉が沢山書かれています。それを読んでから、本作を何度も読み返すと、ここには書ききれなかった新たな気付きが、沢山でてきます。気付きが増えるにつれ、印象がどんどん大きくなっていきます。そして、何度も読み返すうちに、初見ではそうでもなかったのに、ウルウルきちゃいました。
この先、何度読み直しても新たな気付きがありそうです。
◆
碑文の主語は誰なのか。
誰が過ちを繰り返さないといっているのか。
nono1さんがコメ欄に書いてくれた言の葉です。
とても共感しました。 ^^
京花って、’46生まれで、胎内被爆だと解釈してみたんだけど、どうなんだろ・・・???
◆2007.7.7 映画『夕凪の街 桜の国』を観て・・・ 映画の感想
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生きとってくれて あ....... [続きを読む]
受信: 2007年8月 4日 (土) 00時07分
» 夕凪の街 桜の国 2007-42 [観たよ〜ん〜]
「夕凪の街 桜の国」を観てきました〜♪
昭和33年、広島市・・・皆美(麻生久美子)は、建築会社の事務をしながら、母を支えつつましく生きていた。恋愛も贅沢も無縁の生活、皆美の心の中には原爆で生き残った事が負い目になっていた・・・平成13年、東京で暮らす七波(田中麗奈)は、定年後の父の行動が気になっていた・・・
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受信: 2007年8月11日 (土) 07時13分
» 「夕凪の街 桜の国」試写会 [Thanksgiving Day]
ヤクルトホールで行われた「夕凪の街 桜の国」の試写会に行ってきました。
こんな内容の映画です。
『原爆投下から13年後の広島。そこに暮らす平野皆実(麻生久美子)は、打越に愛を告白される。だが彼女は、原爆で父と妹を失い、自分が生き残っているという事が深い心の傷...... [続きを読む]
受信: 2007年8月11日 (土) 11時27分









コメント
原作漫画、読みました。
ほのぼのとした日常感がいいですね。
この深刻な問題を等身大で考えるには。
さくらスイッチさんの
「碑文の主語は誰なのか」
は、そうですね、英訳分はあるのでしょうか?
もしあったら、Weなんでしょうね。
そのWeは、どんな人たちをさすのでしょう?
日本人?アメリカ人?人類?
この碑文は、感覚的には解った気にさせるけど
散文的に論理的に書いたならどうなるのでしょう?
投稿 nono1 | 2007年7月29日 (日) 14時55分
雑賀忠義が作成した碑文の英訳は下記のようです。
「原爆慰霊碑分の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」
Let all the souls here in peace
For 'we' shall not repeat the evil
個人的には・・・・・、
以前はこの慰霊碑の言葉は、どことなく過ぎ去った時代の記録のような色合いと、漠然とした大きなカテゴリーの曖昧な決意のような色合いで捉えていて、あたしには、自分の生きる現代の日常とは関係の無い言葉だと思っていました。平和を享受することが当たり前の日常で、戦争の記憶が無いあたしには、「碑文の主語は誰なのか」・・・ということも、あたしには関係のない世界で語られることなのだと思っていました。
でも、この数年で少し自分の捉え方が変化しているのを感じています。あたしは、日本人であり、人類でもあります。だから、この言葉に向かい合ったら、主語は「わたし」でなければならないのだと思うようになってきました。
でも、この碑文を断罪の言葉として考えると、イロイロ難しい話になってきます。主語に日本人を考えることは、自虐的歴史観からくる・と、イマドキの人に云われてしまいそうです。「場合によっては有り得る」と言ったショウガナイ人以外の多くの日本人は、原爆を「過ち」だと考えていると思いますが、アメリカ人の多くは、「過ち」という認識を持っていません。朝鮮(韓国、北朝鮮)でもそうです。『夕凪の街・・・』の韓国語版にも、そういった国民感情に配慮した注釈が記されているようです。彼らにとって主語は、日本人でしか成立しない言葉なのだと思います。
この碑文の主語が、「人類」として成り立ち実行する未来はやってくるのでしょうか?下手したら日本人でさえ、「過ち」だったという考えを棄却しかねない状況が迫っている昨今を危惧することは、日本が抱える現実問題から目を背けていることになるのでしょうか?
一昨日に未だ解決を見ない水俣病のドキュメンタリーを見ていたら、『不知火の海に在るすべての御霊よ 二度とこの悲劇を繰り返しません 安らかにお眠りなさい』という慰霊碑が映っていました。この言葉にも、原爆慰霊碑と同じことを考えました。
投稿 さくらスイッチ | 2007年7月30日 (月) 07時11分
『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している
おそらくそうですね。。。
言の葉
何が過ちだったのだろう。
核爆弾という、当時の想像を絶する威力の
大量殺戮兵器を実際に使用すると決意したことか?
一瞬にして10数万人の命を奪った。
数えるべきではないが、
それは、NY 9.11の30倍の虐殺である。
それは、ナチスのユダヤ人虐殺の50分の1の数である。
それぞれの悲劇である。
断罪をしても解決はしない。
断罪ではなく人類が持っている業について
考察しその業を少しでも解消すべく行動するべきと思う。
憎悪は連鎖する。
復讐は不毛である。
他者を理解するには自己を理解せよ。
投稿 nono1 | 2007年7月30日 (月) 21時35分
>断罪をしても解決はしない。
>断罪ではなく人類が持っている業について
>考察しその業を少しでも解消すべく行動するべきと思う。
>憎悪は連鎖する。
>復讐は不毛である。
>他者を理解するには自己を理解せよ。
本当にその通りだと思います。
あの・・・、『言の葉』を、“夕凪の街 桜の国”と、“『夕凪の街 桜の国』を読んで・・・”の本文に転載させて貰ってもいいですか?
投稿 さくらスイッチ | 2007年7月30日 (月) 23時56分
はい、もちろんです、どうぞ。
あと気がついたことでは、表紙のカバー絵は、ほのぼの感があるけど、
表紙自体の絵はどうしようもない悲しさが漂ってくる感じだと思いました。
投稿 nono1 | 2007年7月31日 (火) 06時48分
転載させて頂きました。
ありがとうございます。 ^^♪
表紙の絵ですが、あたしもそう思います。
二枚の絵は、色合いだけでなく、季節も違うし、時刻も僅かに違うように見えます。そして、皆実の視線がわずかに違うことによって、漂う雰囲気も違って感じられます。
表紙自体の絵は、「夕凪の国」に描かれた時間とリンクした皆実なのが、余計に悲しく感じさせるのかもしれませんね。
投稿 さくらスイッチ | 2007年7月31日 (火) 20時31分
初めまして。情におぼれず(?)に、緻密に考察されている姿勢に感動しました。私なんか、映画を見てただよかったと思っただけのようでしたので、大いに反省です。
TBさせていただきましたので、よろしくお願いいたします。
投稿 分太郎 | 2007年8月17日 (金) 19時43分
★分太郎さん、コメ&リンクありがとうございます。
月の鑑賞本数、ハンパじゃないですね。
あたしも映画を観ている最中は、情におぼれてます。^^
投稿 さくらスイッチ | 2007年8月18日 (土) 06時41分