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2008年3月 9日 (日)

309: 麦秋 (紀子三部作 その二)

“紀子” 28歳

そんなことない これでやっと普通になって来たの
今まで男が図々し過ぎたのよ

Bakusyu01

監督 : 小津安二郎

制作 : 山本武
脚本 : 小津安二郎 , 野田高梧

出演 : 原節子 , 笠智衆 , 淡島千景 , 三宅邦子

収録時間 : 124分
制作 : 1951年 日本

世界中の名監督に影響を与えた小津安二郎監督と名脚本家・野田高梧のコンビが最も充実していた時期の代表的な家族劇。

間宮周吉は北鎌倉に住む老植物学者である。息子康一は医者で東京の某病院に通勤、娘紀子は丸ノ内の貿易会社の専務佐竹宗太郎の秘書である。佐竹の行きつけの築地の料亭「田むら」の娘アヤは紀子と学校時代からの親友で二人共未婚であるが・・・goo映画

IMDb★★★★★★★★8.4/10 888 votes
YAHOO!JAPAN 映画
★★★★☆ 4.67点/9人
映画生活
★★★★ 87点/12人

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「最近、珈琲の美味しい店は何処だろう?」(貿易会社の専務佐竹)、「銀座のルナなんかどうでしょう」(秘書の紀子)、といった様な会話が交わされて 佐竹がメモを取るシーンがあった。珈琲好きのあたしには印象に残るシーンだった。喫茶店は昭和初めには存在していたけど、戦争が始まり珈琲豆が手に入 らなくなりその姿を消していった。戦争が終わって5年後の1950年(昭和25年)に民間貿易が再開され、珈琲はたちまち大衆の中に広がっていった。この映画制作の1951年は、再び珈琲が楽しめる様になったスグなのだから、“珈琲が美味しいお店”というのは当時のトレンドスポットだったんだろうなぁ・・・、なんてあたしは思ったりした。

 
 
登場人物の感覚に、現代とは違うところが多々あるんだけど同じ様なところもあり、1951年制作の映画を2008年の今見るという面白さがあった。例えば・・・

「お前たちはね 何かっていうとすぐエチケット エチケットって まるで男が女に親切にする法律か何かみたいに思ってるけど そりゃそういうもんじゃ無いんだ

男にしろ女にしろ 決して他人に迷惑を掛けない いかなる意味においてもだよ それがエチケットというものの真義なんだよ」

「分っちゃいるのね お兄さん 感心に」

「分ってないかと思ってた」

「ばか・・・

飯を食うのもいいが とにかく終戦後 女がエチケットを悪用して 益々図々しくなって来つつあることだけは確かだね」

「そんなことない これでやっと普通になってきたの 今まで男が図々し過ぎたのよ」

「しっかり しっかり!」

「お前 そんな事を思っているから いつまでたったってお嫁にいけないんだ」

「いけないんじゃないの いかないの いこうと思ったらいつでもいけます」

「うそつけ  」

・・・・・とかね。

脱線するようで実は脱線しないんだけど、あたしは年明けにDS文学全集を買った。これが思った以上に面白くて、そこに夏目漱石の『三四郎』(明治41年9月1日~12月29日「朝日新聞」に連載) も収録されていたので、読み直してみた。そこに、女学校で教育を受け、東京に住んでいて、ハキハキと自分の考えを言う美禰子という女性が登場する。その美禰子を話題にして、あるいは交えてこんな会話が交わされる場面がある・・・

「君もらっちゃどうだ」

「ぼくか。ぼくでよければもらうが、どうもあの女には信用がなくってね」

「なぜ」

「原口さんは洋行する時にはたいへんな気込みで、わざわざ鰹節を買い込んで、これでパリーの下宿に籠城するなんて大いばりだったが、パリーへ着くやいなや、たちまち豹変したそうですねって笑うんだから始末がわるい。おおかた兄からでも聞いたんだろう」

「あの女は自分の行きたい所でなくっちゃ行きっこない。勧めたってだめだ。好きな人があるまで独身で置くがいい」

「まったく西洋流だね。もっともこれからの女はみんなそうなるんだから、それもよかろう」

・・・・・・・・・・・・・・・

「どうもならないのさ。だから結婚は考え物だよ。離合集散、ともに自由にならない。広田先生を見たまえ、野々宮さんを見たまえ、里見恭助君を見たま え、ついでにぼくを見たまえ。みんな結婚をしていない。女が偉くなると、こういう独身ものがたくさんできてくる。だから社会の原則は、独身ものが、できえない程度内において、女が偉くならなくっちゃだめだね」

『三四郎』が新聞連載された明治41年って、西暦でいっ たら1908年で、今から100年前のことなんだよね。あたしは上記を読んだとき、こういう感覚って100年前にもあったんだなぁ・・・なんて、妙な感心をしてしまった。

で、変なもので、1951年(昭和26年)制作のこの映画『麦秋』を見ても、こういう感覚って戦後スグにもあったんだなぁ・・・なんて、同じように妙な感心をしてしまった。
 
1908年作『三四郎』の会話にある感覚、1951年制作『麦秋』の会話にある感覚、そして2008年現在の会話にある感覚、それらに相通じるモノがあるのが面白い。一部の先進的な人達の感覚だったものが、時間を経て大勢の一般的な人達の感覚に変化したような気がする。

それを思うと、100年後に多数に変化する感覚の芽って、今は何処にどんな風に存在しているんだろう・・・なぁんて考えちゃったりもした。

 
 
◆・・・◆◆・・・◆◆・・・◆
晩春 : 春の終わり頃。暮春。
麦秋 : 麦の熟する頃。初夏の頃。むぎあき。むぎのあき。

Bakusyu02_4

 
 
 
 
 
 
 
 

***・・・・・ 小津安二郎監督作品 ・・・・・*** 

「そうかね、そんなものかね」
「そうよ、そうなのよ」
「ふーむ、やっぱりそうかい」   

 
 
 
 
 

 

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