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2008年8月21日 (木)

『沖縄で起きた“集団自決” 背景は・・・?』

実際に戦争を経験した方たちが高齢になり
その経験を次の時代に伝えていくのが難しくなってきた今
戦争の事実はどう伝えられていくべきなのか・・・

・・・・・青い沖縄の海には 赤く染まった過去がある

Okinawa

日本テレビ NEWS リアルタイム特集『沖縄で起きた“集団自決” 背景は・・・?』(8/15放送の録画)を見た。下記はその雑感と覚書。

     
太平洋戦争地図
Mapjapanlgc

・・・・・ 雑感 ・・・・・

日本兵の卑劣な過去を葬ることが、果たして今後の日本のためになるのだろうか? なるわけが無い。戦争の事実として知る必要があるはずだ。過去の日本軍を美化していったら、将来にまた戦争を肯定する時代になってしまうかもしれない。

事実を事実として客観的に伝える事は出来ない。第三者に伝える段階で必ず主観が入る。同じ出来事であっても光の当て方で見え方はガラリと変わるから、「戦争の事実」はモラルある見識によって伝えられるべきだ。権力者の視線で戦争を伝えていては、意識していなくとも欺瞞に満ちた美談になってしまう。伝えられるべき戦争は、民間人の側に立って見える姿であるべきだ。戦死者XXX人と数字でしか残らないような一般人の視線で戦争を伝えない限り、多くの日本人が必要とする情報にならないし、戦争の愚かな本質は見えてこない。

だから、沖縄戦教科書検定問題は、凄く大きな問題だと思う。「集団自決」に至ったのは何故か、「日本兵」が「沖縄の民間人」に自決を促すような事をしたのは何故か、「集団自決」という事実をどう捉えるか・・・

 

・・・・・ 覚書 ・・・・・

日本テレビ NEWS リアルタイム特集 8月15日放送
『沖縄で起きた“集団自決”背景は・・・?』

◆6月23日は沖縄県限定の公休日「慰霊の日」

20万人以上の犠牲者をだし、日本最大の地上戦となった沖縄戦。毎年、沖縄戦が終った(=アメリカ軍が沖縄を占領した)とされる6月23日は、沖縄では犠牲となった人たちの魂を慰め平和への誓いを新たにする「慰霊の日」と呼ばれています。

*戦後、沖縄はアメリカ軍の支配下に入り、日本に返還されるのは1972年5月15日のことであった。なお、返還に先立つ1961年、琉球立法院は6月22日を「慰霊の日」と定めている(1965年に6月23日に改定)。返還後の1974年10月には、県議会でもあらためて制定決議が行われた。現在は毎年6月23日に摩文仁の平和祈念公園において追悼式典が行われる。

太平洋戦争末期、日本軍の占領地を次々と落とし北上を続けた連合軍は、遂に沖縄県に上陸。鉄の暴風と言われるほど激しい攻撃で、県民のおよそ3人に1人が犠牲となりました。「戦場というのは本当に一滴の水、これをうばいあって殺し合うという状況が出てくる」。学生だった19歳での時に沖縄戦にかりだされ、元沖縄県知事で沖縄戦研究の第一人者である大田昌秀さん(83)の談。「アメリカ軍の攻撃だけでなく、日本兵同士、また日本兵が民間人を殺すという味方同士の争いも少なくなかった。自分の庭につくっている野菜でも、一本の木一本の草も天皇の所有物だから、無断でこれをとるのは銃殺するというような、怖い命令もでていた」。

そんな戦争の中で、多くの住民が犠牲となる世界でもほとんど例をみない出来事が起こりました。それは集団自決と呼ばれる出来事です。

◆沖縄本島中部の読谷村での集団自決

Chibichiri01 「ここはチビチリガマといって、140名くらいの方が避難しておられ、その中で83名の方が集団自決という形で亡くなったガマの入り口です」。沖縄本島中部、アメリカ軍上陸地点でもある読谷村に、チビチリガマと呼ばれる自然洞窟があります。ガマとは沖縄の方言で洞窟という意味(右画像はガマ入り口正面)。戦時中ここで集団自決が起こりました。「お母さんたちが我が子に馬乗りになって、カマで首を切り包丁で腹を刺し、自分の首も切ってという・・・」。ほとんどの男は戦争に出ていたため、ガマに避難していたのは、子供や女性、老人たちでした。そのため多くの子供たちがここで、母親の手によって短い生涯を閉じました。

読谷村における戦争の歴史を研究している読谷村立歴史民俗資料館館長の小橋川清弘さん(50)は、集団自決が起こった理由をこう話します。「(日本軍)大本営の軍官民共生共死の一体化を促進せよ、といった中で、徹底した玉砕の思想を当事の沖縄の守備軍32軍が、沖縄の人々に対してやってきた。(アメリカ軍に)女性は犯されて殺されていくと、男たちは耳をそがれ鼻をそがれ、あるいは戦車でもって轢き殺されると(教育された)。当事は軍人が言う言葉は天皇の言葉と(軍人は)言っていたし、(住民側も)そのとおりに受けとめていた」。小橋川さんは当事の国の教育が、集団自決を招いた大きな理由の一つだと考えます。

*同じ読谷村内でもチビチリガマがら600m離れたシムクガマに避難した約1000人は、英語の喋れる男性の誘導で1人も死ぬことなく投降した。こうした経緯は1983年ころまでまったく明らかにされなかった。それは率先して死のうと言った者も、その結果死にたくないのに死んだ者も、またその恨みを持つ者それぞれが同じ集落内の隣人や近親者であり、この「集団自決」の忌まわしい記憶を呼び覚ます事に強い抵抗があったからである。

◆沖縄本島から西へおよそ30キロにある渡嘉敷島での集団自決

数ある集団自決の中でも、最も多い300人以上の死者を出したのが、渡嘉敷島で沖縄本島から西へおよそ30キロ。アメリカ軍が最初に上陸した慶良間諸島にある島です。日本軍が最後まで隠れていたという、おびただしい数の壕が残っています。集団自決の跡地もあります。「ロープで木をまたいで囲み、死んでも下に転げ落ちないようにと一族で輪を描いてここで手榴弾を使った。中には晴れ着を持ってきて、ここで晴れ着に着替えて死んでいった人たちもいる」。

ここで起きた集団自決の背景には、徹底した軍の教えがあったと、集団自決で生き残った数少ない生き証人である吉川嘉勝さん(69)は言います。「女はもてあそばれてあとは殺されると。男は焼き殺されるとか、ドラム缶に入れて殺されるとか、戦車に轢かれるとか、(日本軍から)いろんなことを徹底して教え込まれていた。」、「村長さんが『天皇陛下バンザイ』と3回こうやったんです。皆立って『バンザイ バンザイ』と。しばらくしたら手榴弾の爆発音が聞こえ出した。そして、ワァワァあちこちでやりだした」。手榴弾は、イザという時の自決用にと、日本軍が住民に配っていたものだったと言います。

「一発は敵に対するもの、一発は自決するものということで、その前提で手榴弾を二発ずつ持たされていた。ふつうは兵器を配る場合は兵器重曹という係りがいて、隊長の許可を受けて出すようになっていた。そういう問題も、きちっとおさえておく必要がある」。住民たちに配られた自決用の手榴弾に、徹底した軍国教育・・・、世界でも類を見ない集団自決は、そんな背景のもとで起こりました。

◆集団自決と教科書検定問題

今この集団自決について、軍の命令ではなかったという動きが出てきています。その一つが、沖縄戦教科書検定問題です。国は高校日本史の教科書で、日本軍によって集団自決を強いられ・・・などとなっていた表現から、今年度から日本軍の強制を意味する表現を削除。直接的な軍の強制を示す根拠が無いというのが理由です。去年、安倍晋三前首相は「(検定は)検定制度にのっとって適切に行われていると思います」と述べています。

集団自決に日本軍の強制はあったと考える吉川さんの思いは・・・「あなたたちは自分たちで自決をしたのだから自業自得だといった格好で、処理されるのにはもう我慢がならない」。 。。

教育と戦争は切り離せない問題。大田元知事は言います「教育の怖さというもの、その影響力というものは、決して軽くみてはいけない。それだけに今回の教科書検定問題は、大いに注目する必要があると思いますね」。

沖縄戦の集団自決では、あわせて1000人以上が亡くなったとも言われています。実際に戦争を体験した方は、もう高齢化で次の時代に伝えていくのが難しくなっています。それだからこそやはり、教科書とか解説書でしっかり事実を伝えていく事が必要だと思いますね。真剣に事実を見つめていくことの大切さを、改めて感じますよね。

★戦争ドキュメタリー

Okinawa_b

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