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2008年8月23日 (土)

『史上最大の極秘作戦ニセ札作戦、歴史から抹殺された三河地震』

本来武器にならないはずのものが武器になる「戦争の恐怖」

生き残った震災被害者たちに「やむをえない」と云わせる戦争

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TBSテレビR30 『史上最大の極秘作戦 ニセ札作戦』 『歴史から抹殺された 三河地震』の覚書。・・・ホントは三部構成で、最初に『阿片王 里見甫』が放送されたみたいだけど、何故か録画されていなかった。残念、見たかったなあ。

TBSテレビR30『史上最大の極秘作戦 ニセ札作戦』

◆経済攪乱と資源獲得のために

日本陸軍の見解「日中戦争は短期決戦」とたかをくくっていた。しかし、蒋介石政府の想定外な抵抗で戦争は泥沼化した。苦戦を強いられた日本軍にとって、戦況を打開する押しの一手が求められた。そこで、陸軍参謀本部が画策したのが、

陸軍参謀本部
対支経済謀略実施計画

蒋政権の法幣制度の崩壊を策し以って 
その国内経済を攪乱し 
同政権の経済的抗戦力を壊滅せしむ

という作戦だった。作戦名「杉工作」といって、中国の正式なお札の偽札を作って、蒋介石政府の経済的攪乱を図ると。つまり、偽札をばらまいて、貨幣価値を急激に落とし、中国の通過を紙屑同然にする・・・、そうする事で蒋介石政権の信頼を地に落とし、内側から崩壊させようというのだ。さらにこの偽札作戦には、もうひとつの狙いがあったという。日本は物資の少ない国なので、支えるための日本の戦費を賄い、大量の軍事物資を買う事が必至な課題だった。経済攪乱と資源獲得、この作戦こそが、不利な戦況を打開する切り札だった。

偽造を固辞した内閣印刷局 それでも偽札作りを遂行した陸軍

とはいえ、それは紙幣の偽造という国家ぐるみの組織犯罪・・・。そんな偽札作戦は、その内容ゆえ、陸軍の中でも特に極秘作戦を扱う部署で実行に移された。紙幣の印刷技術は内閣印刷局の専売特許、そこで陸軍は協力を依頼するも印刷局側は「卑しくも国家機関として犯罪行為に加担することはできない」とのことだった。こうした事から偽札作戦は、まさに手探り状態からのスタートを余儀なくされた。

ちょうどその頃、偽札作りの部署で働き始めた人物がいる。明和グラビア株式会社会長・大島康弘さん(86)だ。大島さんは、初期の偽札作りの現場を知る数少ない証人の一人である。1936年に東京の工芸大学を卒業し陸軍に志願した大島さんが配属されたのは、偽札作りの部署だった。しかし作業開始までには、一ヶ月の空白があったという。その間に身元調査をしていたのだ。所属するところが軍の一番機密のうるさいところだったので、本人はもちろん、その周辺、親戚まで調べたのだ。

その後身辺調査が完了し、次第に仕事を任されるようになった事で、ここでの作業が徐々に分かってきたという。「印刷工場という事はすぐ分かりますよね。ただ、何を印刷するかって事はわからなかったですよね。」「それが分かったのはいつぐらいですか?」「三ヶ月くらい経ってからです。職場の長の人に、何ですか、って質問して教えて貰ったという感じです。中国の紙幣だって・・・」。そこから、大島さんたちの本格的な偽札作りは始まった。

しかし単純に偽札を作るといっても、紙幣には様々な偽造防止の策が施してある。その為、作業は多くの壁にぶち当たった。その一つが複雑な模様・・・、紙幣は細やかな線で構成され、場所によっては1ミリの間に10近い画線が刻み込まれているものもあった。さらに偽造防止のために、ほとんどの紙幣に描かれている人物画・・・、特に人物画は原版の彫刻家の個性や特徴があらわれるため、作り手が違うだけで、手にした者に違和感を与えてしまう。限りなく本物に近づけるために、大島さんたちは紙幣を引き伸ばし、細かな違いを修正することを繰り返した。最も偽造が困難だった技術が透かしだった。「透かしを作るのにどのくらいかかったんですか?」「半年くらいかかりましたね」。

こうして何とか出来上がった偽札は、泥や脂肪と共にコンクリートミキサーに入れられかき回される事で、使い古した風合いを再現した。

◆全て証拠を隠滅する如く至急処理す

その後、中国に拠点を置く陸軍の特務機関によって、その偽札は物資の購入などに使われ、大量にばら撒かれたという。一説によればその額はなんと、約30億元、現在の貨幣価値に換算すると推定1兆2000億円・・・、まさに陸軍の当初の目論見どおり。 。。しかし、そんな偽札作戦を以ってしても、大国をねじ伏せるまでに至らなかった。

実は終戦を伝える玉音放送の数時間前、偽札作戦「杉工作」に最後の命令が下されていた。

特殊研究処理要領方針

敵に証拠を得らるる事を不利とする特殊研究は 
全て証拠を隠滅する如く 至急処理す

証拠となるものは全て処分せよ、偽札作戦は歴史の表舞台から葬り去られたのだった。

◆本来武器にならないはずのものが武器になる「戦争の恐怖」

「戦争というと、ほんとヒドイ事をしたとか破壊されるとか、そういう風な事だけ考えるわけですけど、やはりそうではなくて、勝つためには手段を選ばないのが戦争ではないかと。そういう意味では、本来武器にならないはずのお札まで、本格的な武器になるという、そういう(戦争は)怖いものだんだということを、私たちは認識し直さなければならないんじゃないか」。意外な戦争の恐怖、それを語り継ぐ事こそが、現代の我々に課せられた責務なのかもしれない・・・。

 
 

TBSテレビR30『歴史から抹殺された 三河地震』

太平洋戦争の末期、アメリカ軍により空襲が激化、もはや日本軍になす術は無かった。しかし報じられるのは、華やかな戦果ばかり・・・、実はその裏側である悲劇がおきていた。1945 1.13 AM。震源地は愛知県の三河湾、震度7、M6.8の巨大地震は、阪神・淡路大地震M7.3や新潟中越地震M6.8と同じ内陸直下型だった。よって狭い範囲に大きな被害を及ぼし、三河地震による被害は、死者2306人、負傷者3866人、建物の全壊16408戸にもなった。しかしこの地震は、ある事情により無かったことにされた。歴史から抹殺された三河地震、その悲劇の裏側に迫る。

◆大震災を「被害 最小限度に防止」と新聞報道

三河地震の翌日の新聞には、「重要施設の被害僅少」、「東海地方に地震 被害、最小限度に防止」の文字が・・・。しかも、三河地震が起こる一ヶ月前、紀伊半島沖を震源とする東南海地震、震度7、M7.9が発生していた。三河地震はこの東南海地震の復興が終らぬ内に起きた二度目の地震であった。いったいナゼ未曾有の大惨事を「被害、最小限度に防止」と伝えなければならなかったのか。

当事の新聞社にあった記事指止事項一覧表には次の様な事が書かれている。「戦死当事の乗組艦、機名、戦死の模様は不可。罹災者の狼狽状況。大本営の許可したるもの以外一切掲載を禁ずる」。つまり敵が我が国の戦力低下を知る事となる重要なデータは公表出来ないというのだ。しかも戦時中の東海地方には、航空機の製造工場が集中し、日本の生産量の60%を占めていた。当然これらの工場は、地震によって致命的な被害を受け、生産能力が完全に麻痺していた。この事実は敵国のアメリカはもちろん、日本国民にも士気をを低下させるという理由で知られてはならなかった。「再度の震災も何ぞ 試練に固む特攻魂 敵機頭上、逞しき復奮」、「決戦に震災が何だ 必死、増産に當れ 諸君こそ生産陣の中堅」、「特攻魂で震禍を克服」。その徹底振りは凄まじく、台風などが伝わる事も恐れ、天気予報ですら秘密にするほどだった。

しかし無かった事にしたはずの地震を、アメリカは知っていた。「Tokyo Admits War Plant Damage By Tidal Waves Caused by Quake ・・・」地震による津波で軍需工場に被害、その影響は東京や大阪、長野にまで及ぶと、実際以上の被害があったように伝えている。

戦いに勝つためとはいえ、こうして地震の事実は捻じ曲げられた。よって記録が殆ど残されておらず、幻の大地震となってしまった。

◆生き残った被災者たちに「やむをえない」と云わせる戦争

あの悪夢から63年、被災地には地震の爪跡が今も残っている。愛知県西尾市にある妙喜寺、住職が案内してくれたのは、三河地震によって出来た幅7センチ長さ10メートルの地割れ。お寺の被害状況は、本堂と庫裏が全部全壊、中で12人の子供と1人の先生と、現住職の姉も庫裏で亡くなった。合計14人が亡くなっている。被災者の中には、学童疎開の子供たちも大勢いた。空襲から逃れるための避難であったのだが・・・。「この地震って、無かったことにされた分けじゃないですか・・」「その当事にしてみると、やむをえない・・・。けど、伝えていかんことは間違いないですね」。

早川ミサコさんの体験。当事16才。女学生の頃に被災し、助かったが・・・。母屋が倒れ、祖母と重なった状態で梁の下敷きになり、身動きが取れなかった。自分の足に絡んでいた祖母の足が、次第に冷たくなっていくのが分かった。

富田達躬さんの体験。当事17才。養蚕業を営む自宅が全壊。揺れがおさまり暗闇の中で手を伸ばしたら、天井に届いた。松の巨木が倒れそうになった天井を支え、私は助かった。

小林清さんの体験。当事30才。被災者であり軍医でもあり・・・。集落の小学校に臨時の診療所を開設した。物資が無く十分では無かったが、次から次へと運ばれてくる地域住民の治療を行った。

人々が知る由も無かった戦争中の大地震、現代人はこの悲劇をやむを得ない事情と理解できるのだろうか。愛知県碧南市でスーパーマーケットを営む原田三郎さん。当事近衛兵だった原田さんは、25才の時に被災。その時の様子をこう語る。「地面は波を打っている。崩れ落ちる音から地響きの音から・・・。軍隊にいた経験からすぐに身支度できるように服を布団の上に置いていた。妹が隣に寝とって、殺しちゃいかんと思って・・・」。自宅は全壊したものの、幸い家族に死傷者はいなかった。そして原田さんはとっさにカメラを取っていた。カメラを持っているだけでスパイと言われた時代、情報統制のため撮影しても他人に見せられない事は分かっていた。それでもシャッターをきり続けた。歴史から抹殺された大地震。しかし原田さんは、やむをえない事だという。「もし、あんたが苦しい生活をしとったとしたら、あんたが食うものを割いてでもくれる? あんたも困っちゃう。なかなか出来るもんじゃない」。地震から7ヶ月後終戦、それにともない一切の私物を焼却処分されたのだが、この十数枚の写真は奇跡的に残ったものだった。

そして戦後数十年が経ち、封印されていた被害報告書の存在もあかされた。第86回帝国議会衆議院秘密会議事速記集(二)1945年2月9日(空襲の被害状況及び東海、近畿地方に於ける震災の被害状況)。三河地震の存在を知ること、それは被災者たちがやむをえないとつぶやく戦争の愚かさを知ることでもある。

 

◆◆◆◆◆
これらの事実は、歴史の表舞台からは葬り去られた。しかし忘れてはならない。戦争の最中に、力の限り生き抜いた人々がいたことを。彼らが思い描いていたのは、希望に満ち溢れた未来の日本。今私たちは、その思いに答えられているのだろうか。

★戦争ドキュメンタリー

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