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2008年8月23日 (土)

『女学生が作った謎の最終兵器と悲劇』

アメリカ本土を攻撃した風船爆弾!?

米国本土に爆弾の雨を降らせたいというのが

当事の全国民の切実な願望であった・・・

「和紙」に「コンニャク糊」で作った風船爆弾

それは追い詰められた軍部が 真剣に考えた軍事作戦だった

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TBSテレビ08/23(土)放送、報道特集NEXT『女学生が作った謎の最終兵器と悲劇』の覚書。・・・報道特集NEXTのエンディングのテーマソングには、宇多田ヒカルの「Fight The Blues」が今年の春から採用されている、よね。^^♪

報道特集NEXT 08/23(土)TBSテレビ
『女学生が作った謎の最終兵器と悲劇 』


◆アメリカ本土を攻撃した風船爆弾

Map_of_usa_highlighting_oregon AGE 14, AGE 13, AGE 13, AGE 13, AGE 11 .....慰霊碑に刻まれた6人の名前、その殆どが10代の子供達だ。アメリカ・オレゴン州ブライが、第二次世界大戦中アメリカ本土の中で攻撃を受け、犠牲者を出した唯一の場所である事は、あまり知られていない。いくつもの小さな袋をぶら下げた奇妙な爆弾、大戦末期、アメリカで次々と見つかった正体不明の気球・・・、爆弾はそこに吊り下げられていた。

アメリカ軍によって回収された爆弾は、今もスミソニアン博物館に保管されている。「かなり大きいですよ。広げると直径12メートルにもなります」。当事のアメリカは、部品の細部に至るまで細かく分析したという。「アメリカ政府は、この得体の知れない物体を非常に恐れました。いったい、いつまで続くのか」。そして、重りに使われていた砂を分析し、気球が遠く離れた日本から来ていた事を突き止めた。それは旧日本軍が、最後の決戦兵器と呼んだ風船爆弾だった。アメリカ本土に強い恐怖を与えながら、幻のように消えた秘密兵器風船爆弾とは・・・?

◆米国本土に爆弾の雨を降らせたいというのが 当事の全国民の切実な願望であった

1944年10月25日、神風特攻隊が最初の攻撃に向かったこの日、悪化の一途を辿る戦況を打開しようと陸軍参謀部はある極秘指令を出した。「米国本土に対し、特殊攻撃を実施せんとす」。アメリカ本土を混乱に陥れたい。追い込まれた日本軍は、最後の抵抗に出た。作戦の暗号名は風船爆弾の頭文字をとって「フ号」と名付けられた。最高責任者は、陸軍科学研究所の草場季喜少将。指令を受けた当事の思いをこう書き残している。「米国本土に、何とかして爆弾の雨を降らせたいというのが、当事の全国民の切実な願望であった」。

◆神風に託した「フ号」作戦・・・

我が国の上空1万ないし1万2千メートルの高度には、冬季になると常に強い西風が吹く。無人の気球をこの風に乗せて飛ばせたなら、これこそ神風だ」。草場少将のもとには、この計画のために全国から優秀な技術将校たちが、神奈川県川崎市の秘密施設、通称登戸研究所に集められた。気象条件を分析するグループ、軽くて丈夫な部品を開発するグループ、中でも重要なポイントの一つになったのが気球の素材だった。強い偏西風が吹く高度一万メートル上空は、気温零下50℃以下、気圧は地上の4分の1、強靭な素材が必要だったが、日本国内の物資は既に底をついていた。

埼玉県西部、軍部はここで作られる意外な工芸品に目をつける事になる。1300年の伝統を受け継ぐ和紙の里がある。風船爆弾に用いる素材として軍が注目したのは、以外にも和紙だった。ここの和紙はとりわけ繊維が長くて強い那須楮の木から作られている。千年はもつと言われるくらい丈夫だ。和紙を使えば強くて軽い気球を作る事が出来る、軍部は全国の和紙の里に大量生産を命じた。戦時中、素材も何もない中、紙しかなかった。最後の原料、日本の・・・。

群馬県南部の下仁田町、軍部はこの町にもあるものを大量に供出するよう命じた。それはコンニャク・・・、「いわゆるコンニャクが兵器になる」。下仁田は全国有数のコンニャク芋の産地、いったいどう使うのか。粉にしたコンニャク芋を水で溶くと機密性の高い糊が出来る。和紙をコンニャク糊で貼れ、軍部は全国からコンニャクを集めた。それで一時、日本中からコンニャクが無くなった、食べるコンニャクが・・・。

この二つの材料を使い、どの様に作戦に耐えうる気球を作ったのか。当事を知る女性に接触する事が出来た。「とにかく戦争に勝たなければならないという一心ですね。だったと思いますよ」。風船爆弾はの気球は、原紙と呼ばれる畳一畳分の和紙を600枚貼りあわせて作られた。当時学徒動員で工場に送り込まれた井上さんは、この原紙を作ったという。まず和紙を貼りあわせて畳一畳分の大きさにする。全面にコンニャク糊を塗って乾燥させるコーティング作業を三度繰り返す。和紙を強化するためだ。その上に二層目の和紙を貼り合わせ、同じ様にコンニャク糊でコーティングをほどこす。こうして和紙を五層に重ね、一枚の原紙が完成する。この作業には細心の注意が必要とされた。和紙の間に空気が入ることを“浮き”と言って、米粒大でも飛んでいくとそれで爆発する。貼り合わせるさいに、僅かでも空気が入れば上空でその部分が膨張して破裂、気球が落下してしまう恐れがあった。和紙とコンニャク、軍事兵器としては意外な取り合わせだが、草場少将あらゆる素材を実験し“これに勝るものは無かった”と書き記している。

軍部が掲げる気球の生産目標は、1万5千個、その達成のために、井上さんのような女学生が、全国で大量に動員された。山口県の秋元さんもその一人だ。当事福岡県の小倉曹兵廠で原紙を製造した。終戦まであと半年、16才の冬だった。寒さの中、一日12時間の立ち仕事、コンニャク糊の蒸気がたちこめる、睡眠不足に栄養失調、極限の状態だった。「下痢を起こしたり風邪をひいたり、生理も止まって回復に2年かかった」。

こんな証言をした元女学生もいる。「ヒロポン飲ませるんですね、眠らせないように、夜勤の時はね」。ヒロポン、つまり覚せい剤を栄養剤として飲まされたという。「ヒロポンが効いてる時は眠くないが、覚めると非常に眠い」。完成した気球は、劇場や学校の体育館で、広いスペースを使って膨らませた。女学生達はその気球の中に入ってまで検査したという。「破れていないか、抜けているところがないか、気球の中に入って見てみろというんです。みんな言われるままに、夢中でしたから」。検査を終えた気球は、千葉の海岸に作られた専用の発射基地に集められ、そこで爆弾が搭載された。

そして1944年11月7日、遂に風船爆弾はアメリカに向けて放たれた。高度1万メートルを吹く強い偏西風に乗れば、およそ8千キロの太平洋を越えて二日で到達できる。だが作戦には、超えなければならないハードルがあった。気球は昼間、中のガスが暖められて膨張するため高度が維持できるが、夜になると、中のガスの温度が下がり次第に収縮してしまう。このため浮力を失い気球は降下してしまうのだ。夜の間も高度1万メートルの風に乗って飛び続けるにはどうすればいいか・・・。

問題を解決するために作られた特殊な機械が、今も残されている。縦横十センチに満たない小箱に錆びた部品、名称は“高度保持装置”、気圧の変化を感知してレバーが自走的に動き、電流を流す仕組みになっている。気球の高度が下がると気圧が上昇し装置のレバーが動き電流が流れて火薬に点火、重りの砂袋を落下し気球を再び上昇させる。この小さな装置によって気球は、8千メートルの太平洋を越えて飛び続ける事が可能となったのだ。非常にシンプルに作られている、必要最小限の機能。国立博物館鈴木一義教授は言います、「現場にある和紙、コンニャク糊、こうした簡単な装置で組み立てられた、それがかなり安定した品質を保っているのは日本らしいと思います。日本でしか作れない発想だと思います」と。

軍部の最高機密とされた高度保持装置、神奈川県川崎市内にある工場で秘密裏に検査が行われた。だがその作業に当たったのも女学生、横浜共立学園に通うまだ14、5才の少女たちだった。この学校の元教諭、風船爆弾と女学生の歴史を調べ続けている桜井誠子さんはこう話す。「幻の決戦兵器とまで言われた風船爆弾の最高機密部分が、15才の少女が検査していることに、日本の労働力が足りていなかったかを感じた」。

◆戦果は得られず

こうして合わせて3200発に及ぶ風船爆弾が、次々と打ち上げられた。この内、確認されただけで361個、推定で1000個の風船爆弾が太平洋を越えてアメリカ本土に到達したとされている。当事のアメリカ軍が撮影した風船爆弾の貴重な映像が残されている。「これから、さらに多くの数が飛来してくるかもしれない。軍関係者は、これらの脅威に対し警戒すること」。ところが、アメリカから被害に関する情報は、一向に伝わってこなかった。一体何故か・・・。

アメリカ政府は、風船爆弾が到達した事実を隠すように、報道機関に自粛要請、メディアもそれに応じた。この兵器が失敗に終ったと日本に思わせるためだった。そして、その狙いは見事的中する事となる。風船爆弾の最高責任者、草場少将は、当事の状況をこう書き残している。「日本内地の空襲は非常に激しくなった。水素の補給源だった工場や資材を制作していた工場も破壊せられた。加うるに本兵器の効果は、殆ど何らの通報も得られなかった」。

スミソニアン博物館元研究員ロバート・ミケシュ氏の談。「この兵器に勝つ上で、最も重要な役割を果たしたのがマスメディアの対応でした」。アメリカ本土を混乱に落とし入れ様と始まった風船爆弾による攻撃、だが戦果を示す情報は遂に日本に届かず、軍部は作戦の中止を決断する。終戦の4ヶ月前の事だった。

◆さようなら戦争

だがそれから20年以上経って始めて、風船爆弾の製造に係わった女学生たちは重大な事実を知る事になる。「それを聞いた時は涙が出た。今でも悲しいですね」。

オレゴン州の小さな村に風船爆弾の犠牲者が出ていたのだ。被害に合ったのは、ピクニックにきていた牧師の妻と教会に通う五人の子供たちだった。松の木にひっかかっていた風船に少年が触れた瞬間、爆弾が炸裂、地面に直径30メートルの穴があき、子供たちは変わり果てた姿となった。遺族の一人、ベティ・ジェントリーさん(69)、当事5才の少女だった彼女は、兄弟のように慕っていた叔父と叔母を亡くした。その出来事は今も脳裏を離れる事は無いと言う。

だがジェントリーさんは、風船爆弾を作っていた女学生たちに恨みは無いとは話す。「彼女たちが罪に悩んでいるとすれば、それはとても悲しいことです。国と国との戦争だったのです。彼女たちも何の罪もない犠牲者です」。

風船爆弾を打ち上げた基地の跡、茨城・北茨城市に、人知れず立つ石碑“わすれじ平和の碑”。そこに平和へのこんな願いが刻まれている。「今はもう呪いと殺意の武器はいらない。青い気球よさようなら。さようなら戦争」。

◆追い詰められた軍部が真剣に考えた軍事作戦だった

Next01 和紙とコンニャクで、あの広大なアメリカを攻撃しようという、現代の私たちから見れば、何と無謀で愚かしい試みにも思えますけども、当事の追い詰められた軍部は真剣に、いわば大真面目に考えた軍事作戦だったわけですね。

風船爆弾は全部で1万近く飛ばされたわけですが、実際アメリカ本土に到達していまして、アラスカやカナダ、あるいはメキシコも含めて、361個が確認されているんですね。アメリカ側の推測では1千個くらいは到達したのではないかとみられています。ちなみにアメリカは、原爆投下の候補地の一つに小倉を考えていたんですが、その理由の一つが、小倉が当事、風船爆弾の主要な製造地だったからという見方もありまして、風船爆弾はアメリカにとってそれなりの脅威になっていたともいえそうです。

今回、風船爆弾の製造に係わっていた女性たちに貴重な証言の数々をして頂いたわけですが、皆さんかつて自分が軍事兵器を作っていた事に係わっていたという事が、心に圧し掛かって多くを語りたがらない方も沢山いらっしゃるんで、今でも心に傷が残っていらっしゃるんだなあ、という感じがあります。軍になんの係わりもない女学生たちが借り出され、そして犠牲になったのがアメリカ側の民間人や子供たちだったという何とも悲しくて遣り切れない風船爆弾のお話でした。

★戦争ドキュメンタリー

Japanese_fire_balloon_moffet

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