416: 劔岳 点の記
監督・脚本: 木村大作
原作: 新田次郎
製作: 坂上順 / 亀山千広
脚本: 菊池淳夫 / 宮村敏正
キャスト: 浅野忠信 香川照之 松田龍平 仲村トオル 宮崎あおい 小澤征悦 井川比佐志 國村隼 役所広司
製作: 2009年 日本
上映時間: 2時間19分
明治40年、日本地図完成のために立山連峰、劔岳(剣岳、剱岳)への登頂に挑む、陸軍測量手の柴崎芳太郎(浅野忠信)ら7人の測量隊。山の案内人、宇治長次郎(香川照之)や助手の生田信(松田龍平)らと頂への登り口を探すが・・・シネマトゥデイ
【YAHOO!JAPAN 映画】 ★★★☆☆ 3.95点/93人
【映画生活】 ★★★★☆ 83点/15人
◆◆◆さくら65点=(物語50点+映像80点)÷2
剱岳を大きなスクリーンで見たくて行ったけど、いくら美しい山岳映像といっても、それだけで139分間というのは、やっぱキツイ。![]()
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映画を観る前に、『新版 劔岳<点の記> (山本甲士・文)』を読んでいたので、それなりに退屈をしのげたので助かった。短いシーンでも、やっている事の意味、時間的な流れ、言葉にならない心情を掴みやすく、それなりに想いをめぐらす事が出来、途切れがちな集中力を呼び戻せた。
とはいえ、ほぼ順撮りした割りに心情の流れがぶつ切りの繋ぎ方で、イマイチ内容(主題)が伝わってこなかった。それもあって、中盤からは観ていて気持ちがだれてしまった。柴崎を“地図をつくる事に黙々と献身する人”として描きたかったのだろうが、“単に一所懸命山に登る人”になっていたように感じたのと、行者様(修験者)の言葉が何だか陳腐で軽い印象になっていたのを、凄く凄く残念に感じた。
おまけに、仙台フィルハーモニー管弦楽団による生音での演奏だという音楽も、映画の雰囲気を著しく盛り下げていた。監督の好みだというヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデルのクラシック音楽は、美しい映像だけにはあっていたけど、映っている人物の心情や時間経過にはあっていないと思った。音楽がかかる度に雰囲気が損なわれるので、イラッとしてしまった。
昨年テレビ放送した「情熱大陸」で、木村大作監督・キャメラ、スタッフ、役者陣が凄く苦労しながら撮影していたのを、頭の隅っこで思い出したりもした。この映画を監督やスタッフや俳優さんたちの副音声付にして、“木村組の記録映像”として観たら、映像に魂が入りもっと感じ入るかもしれない。
兎にも角にも、あたしは環境映像を見ている傍観者になってしまった。この映画を観る事によって測量と山登りを疑似体験し、あたしも「仲間」になった気分になれたら良かったのにな。 。。
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映画としてはイマイチでも、山岳映像としては申し分なかった。様々な季節、天候の山の景色が映し出され、そのどれもが美しかった。雲海に浮かぶ富士山にも見惚れてしまったけど、雪の劔岳の遠景に一番惹かれ心がグッと持っていかれた。神憑り的な美しさがあり、その霊気に当てられて足先から緊張が全身に走った。映像の雪山で、実物の雪山を見たのと同じこの感覚を味わったのは、初めての経験だ。それほどその映像は魅力的だった。
映画を観た後に『劔岳 点の記 (新田次郎・著)』を読んでみた。文字だけでは想像し難い測量シーンも、映画のおかげでリアルに感じる事ができた。小説の柴崎や長次郎は凄くカッコイイ
。面白かった。
◆劔岳は“氷食尖峰”
氷食尖峰: 氷食作用によってつくられたピラミッド型の鋭い岩峰を指す。ドイツ語ではホルンと呼ばれ、これはもともとは牛などの角のことであり、楽器のホルンも同じ語源。
◆登場人物の年齢
柴崎芳太郎
・陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師。
・明治9年(1876年)8月13日 - 昭和13年(1938年)1月29日。明治40年7月当時は30歳。ひとまわり年の違う妻・葉津よは19歳。2人は明治38年に結婚している。
宇治長次郎
・明治から大正にかけての山案内人。
・明治4年12月23日(1872年12月1日) - 昭和20年(1945年)10月30日。明治40年7月当時は35歳。
生田信
・明治末期の測夫(測量助手)。大正二年に結婚し、間もなく測夫を辞めて、故郷で商店を経営。 *映画では既婚者になっていたが、明治40年当時は未婚だった。
・明治18年(1885年) - 昭和25年(1950年)。明治40年7月当時は22歳。
小島烏水
・日本の登山家、随筆家、文芸批評家、浮世絵や西洋版画の収集家・研究家。
・明治6年(1873年)12月29日 - 昭和23年(1948年)12月13日。明治40年7月当時は33歳。
大久保徳明
・日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
・万延元年8月15日(1860年9月29日) - 大正6年(1917年)4月20日。明治40年7月当時は46歳。
◆新田次郎・著『 劔岳<点の記>』より
▼「第三期陸地測量事業」 時代背景
明治四十年八月十二日付の東京日日新聞によると、陸地測量事業と題して次のような記事がある。
我陸軍の陸地測量事業は、日清戦役後即ち明治二十八年より第一期事業を開始し同三十一年に至りて大体の測量を了り、同三十二年第二期の事業を開始して日露戦役前、即ち三十七年を以て略之を完成し、同三十八年より第三期計画事業を開始して今日に至れるが、本期は来る四十二年を以て一先づ終了し、更に四十三年度より第四期計画実行の筈なり。
この新聞記事によると、明治三十九年は第三期計画に入ったばかりの年であったようである。
*柴崎が劔岳測量の辞令を受け下見調査したのが明治三十九年。劔岳頂上に四等三角点を設置したのが明治四十年。
▼「測量」の段取り
「これから秋までの仕事の段取りをざっとでいいから話してやっていただきたいのですが」
「一口に測量と云っても、段階がある。まず第一段階が事前調査だ。去年の下見などはその事前調査に当る。第二段階が、明日から始めようとする、撰点のための地形偵察という仕事だ。第三段階は撰点、つまり三角点を置く場所を撰ぶ仕事だ。第四段階は、造標と云って、三角点に観測用の楼を建てる仕事だ。これと同時に埋石と云って三角点の標石がそこに埋めこまれる。そして最終段階がいよいよ経緯儀という器械を使っての観測だ。この五つの段階を一つ一つ詰めて行って、仕事が全部終るのが十月の半ばになるだろう」
「明日からの撰点のための地形偵察という仕事について話して頂けませんか」
「立山を中心とする縦横それぞれ五里(二〇キロ)に六里(二四キロ)の地図を一枚作ると考えてくれ。その地図を作るには、その地域の中に三十ほどの三角点を作らねばならない。三角点というのは、なるべく見通しのよいところにさっき話した覘標(測標)を建て、互いに方向を観測する場所だ。その観測器械の基礎となる石が標石だ。よいかね、どこからでもよく見えるようなところというと、当然山の頂が選ばれる。そのような見通しがよくて、覘標が作れそうな場所を撰ぶのが、撰点だ。そして、その撰点のおおよその場所を決めるのが明日から始まる地形偵察だ」
▼柴崎等が二番目に選んだルート
柴崎等が劔岳登頂路として二番目に選んだルートは、現在の劔岳登山一般ルートとほぼ同じであった。現在は、劔御前小屋から、別山尾根に取りついて、劔御前(2776メートル)を越えて行く道、その劔御前の劔沢側中腹を横断して行く道、そして一旦は劔沢に降りてから、一服劔に向かって登る道*と三つのルートがある。柴崎等が試みたのは、この三番目のルートであった。一服劔という名はずっと後になってできた名であり、当時は無名であった。
*一服剱を経て柴崎たちが断念した岩壁は、カニのタテ這い・ヨコ這いと呼ばれる鎖場になっている。
▼その後の柴崎芳太郎
芳博さん(柴崎氏の長男)は昭和三十四年にケルン四号に、「一測量官の生涯」と題して、父の想い出を書いている。その中で柴崎氏は、日本山岳会に入会(大正二年)する以前から辻本満丸、武田久吉、高野鷹蔵、高橋健自、田中阿歌麿等、日本山岳会の長老たちとの交際があったと書かれている。柴崎氏が日本山岳会に対して愛敬の念を持っていたことが頷ける。
大正初期までに本土の測量が終了すると、柴崎氏は北海道、千島、台湾、朝鮮、満州、蒙古、中国、シベリヤなどの測量に従事した。シベリヤの測量に出張していた時は一時音信不通になって家族たちを心配させた。柴崎氏が測量師になったのは退職近くになってからである。彼の一徹な性格が出世をはばんだのかもしれない。柴崎太郎氏は昭和八年に退官した。多年の無理がたたったのか晩年の彼は健康には恵まれなかった。
彼は昭和十三年一月二十九日肺炎にかかり厚い手当もむなしく、葉津よさん等に見守られながらこの世を去った。享年六十四歳であった。
◆雑誌「山と渓谷2009年6月号」の覚書
▼強靭な身体
長次郎の背負子は空でも25キロ以上あったらしい。当時の人は、自分の体重の2倍くらいは担いでいたとか・・・。 凄すぎる![]()
山頂で発見された錆び付いた鉄剣と銅製の錫杖は、 長らく柴崎の長男芳博氏の手元にあったが、現在は富山県の立山博物館にある。
▼「物語」と「事実」
「柴崎と長次郎とによる劔岳初登頂」と「陸地測量部と日本山岳会の劔岳登頂先陣争い」は、小説と映画の「物語世界」でのみ展開された。
映画での柴崎と長次郎は一緒に剱岳登頂を果たしているが、篤い仏教信徒で立山信仰に従順だった長次郎は劔岳頂上へ連なるコル手前で落伍している。つまり、彼は陸地測量部と一緒に登頂していない。* 梅雨中休みに行った最初の登頂は、案内人・長次郎(頂上手前で落伍)と測夫・生田が中心になって果たし、測量官・柴崎は同行していない。
* 梅雨明けに行った二度目の登頂で、柴崎は自ら登っている。小説では、最初は測夫が査察のために登り、その後に測量官が登り撰点するのが手順なので、通常通りに、敢えてそれに倣ったとしている。
映画での日本山岳会は陸地測量部と数日違いで剱岳登頂を果たしているが、実際は二年後の明治42年に登頂している。日本山岳会は、陸地測量部の案内人だった長次郎のことを知り、砂防工事に従事していた彼を雇い入れる。長次郎は測量隊を導いた谷を再登、▼雲待ち* 日本山岳会の初代会長だった小島鳥水は、この時の登頂メンバーではない。
四月の雪原を歩くシーンを撮影している時、木村監督が「前の場面と雲の感じが変わってしまったので、同じ状態になるまで待ちます」と言い出した。雪の上に踏み跡をつけてはいけないので、俳優は荷物を背負ったまま、30分以上を立って「雲待ち」した。
▼2カットのために
これは測量の話だから、いろんなところから劔岳を見せなければならない。柴崎が測量したのが27箇所で、実際にも22箇所で撮影している。たった2カットのために、片道9時間かけて池ノ平へも登っている。
◆映画関連のネット記事
▼国土地理院広報 2004年10月
剱岳測量100周年記念行事~「剱岳」三等三角点設置終わる~より抜粋
2007年には、1907(明治40)年7月に、陸地測量部の柴崎測量官らが三角測量のため剱岳に登頂してから100年目を迎えます。北陸地方測量部ではこれを記念して、2007(平成19)年に向けて、広く地元関係者のご協力、ご支援を頂きつつ、各種の行事を行っています。今年度(2004年)は、剱岳山頂に三角点を設置することにしました。
立山修剣(修行を行う)の対象とされてきた「剱岳」。わが国有数の嶮しい山である。今から100年前の1907年(明治40年)7月、当時の参謀本部陸地測量部の測量官であった柴崎芳太郎らが、三等三角点設置のため山頂を目指した。その時に算出された「剱岳」の標高は2,998mであった。
▼2007年07月25日 Toyama Just Now
No.310-1:剱岳測量100年記念、山岳集成図「剱・立山」刊行!より抜粋
平成16年8月。柴崎の思いを引き継ぎ、国土地理院は剱岳山頂に三等三角点を設置。最新のGPS観測によって剱岳の最高地点の標高が2999mと算出された。写真測量でそれまで2998mと表示されていた最高地点の標高は、平成17年3月に発行された2万5千分の1の地形図から2999mの表示に変更されている。
▼二転三転した劔岳の高さ
柴崎らは周辺の山からの観測によって山頂の独立標高点(現在の「標高点」)を2998m(図3)と計算したが、その後の測量により3003m(図5)とされた時期もあった。2004年(平成16年)になってようやく三等三角点が設置され、GPS測量により三等三角点「剱岳」の標高2997.07m(図4)と、剱岳の最高標高2999m(2998.6mを四捨五入)(図4)が求められた。
▼2008年2月18日 世界選手権ついでにチャレンジ
やればできるより抜粋
設置に必要な花崗岩の標石は、剱岳測量100周年記念事業推進実行委員会のほか、希望者らによって室堂から雷鳥沢のキャンプ場まで運ばれ、そこからヘリで山頂まで運ばれた。その三角点には「100年前の想い」である<点の記>が作られ、選点者は、柴崎芳太郎とされたと、記されている。
▼月刊測量 剱岳(劔岳)点の記コーナー
コラム、エッセイ、インタビュー、ギャラリー、映画撮影現場からの報告、「劔岳 点の記」をよりよく理解するための解説など等、とても面白かった。 。。月刊測量 剱岳(劔岳)点の記コーナー
追記:
あるテレビ番組で木村大作監督、浅野忠信、香川照之が撮影秘話を語っていた。
撮影中のある時監督が「誰か脚本もってないかぁ」と聞いたら、少しでも軽くなるように荷物を少なくしていたため、誰一人として脚本を持っていない事があった・・・・・とか、剱岳の岩壁で撮影している時、監督が「もう少し右、右へ」と怒鳴っているんだけど、足元に足場となる岩が無いので、映像に写らない俳優の足元を人力で支えて右に寄った・・・・・とか、面白い話が聞けた。
でもって香川照之がバラしたところによると、木村大作監督&キャメラが剱岳登頂に至る前に自然の美しい景色や富士山の遠景を撮り過ぎて、肝心の頂上シーンを撮る前にフィルムが足りなくなってしまったらしい。
他にも、浅野忠信、香川照之、中村トオルがオファーを受けた時の経緯を面白おかしく話していたり、山小屋で一般客と一緒に泊まったら、「なんか映画の撮影で浅野忠信がここに泊まっているらしいよ」と宿泊客が髭が伸びて誰だかよく判らなくなっている浅野忠信本人の横で話していた・・・・・なんて事を楽しそうに喋っていた。 ^^♪
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