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2009年9月 4日 (金)

437: ココ・アヴァン・シャネル

shineシャネルshineになる前のココの恋愛と仕事

デコラティブなドレスを身にまとう女性たちの間に存在するココは
一人だけ現代からトリップしたかのようだった

現代のファッションセンスを持って近代に生まれたココ

Coco
Coco02

Coco21_4 原題: Coco avant Chanel

監督・脚本: アンヌ・フォンテーヌ(画像右)
原作: エドモンド・シャルル=ルー
脚本: カミーユ・フォンテーヌ / クリストファー・ハンプトン
撮影: クリストフ・ボーカルヌ
音楽: アレクサンドル・デスプラ

キャスト: オドレイ・トトゥ(画像左) ブノワ・ポールヴールド アレッサンドロ ・ニヴォラ マリー・ジラン エマニュエル・ドゥヴォス

製作: 2009年 フランス
上映時間: 110分

孤児院で育った少女時代を経て、酔った兵士を相手に歌うナイトクラブの歌手となったガブリエル(オドレイ・トトゥ)。その一方、つつましいお針子として、田舎の仕立屋の奥でスカートのすそを縫う日々に甘んじていた彼女は・・・ シネマトゥデイ

IMDb★★★★★★★☆☆ 6.8/10 1,196votes
Rotten Tomatoes】 72%TOMATOMETER
YAHOO! MOVIES
YAHOO!JAPAN 映画★★★   3点/3人
映画生活 

◆◆◆さくら80点 試写会

レビュー評価が芳しくないので、正直ストーリーには全然期待していなかった。当時&ココのファッション目当てで観に行った。あたしがココ・シャネルについて知っている事といえば、孤児で虚言癖があった、帽子屋から立身出世した、現代的ファッションの祖・・・という程度だった。

がしかし、凄く良かった。幼い頃からの不安、苛立ち、窮屈さや退屈から逃れられるような「自由」を望み、ある意味心の安定を求めたココの内面(価値観)の流れにフォーカスした場面転換はテンポが良くて、最初から最後まで中だるみすることなく集中して楽しむ事が出来た。

上流社会のスタイルを経験させ近代人らしい愛情を注いだバルザン、強い上昇志向を共有しシャネルの良き理解者として現代人らしい愛情を注いだボーイ。彼らとの経験全てを人生の糧にする事が出来るココの芯の強さには圧倒された。虚飾を取り払った物事の本質を見抜く視線、自分の中から湧き上がる感情を言葉にして主張する事の出来る性格、自分の出来る事=孤児院で習得した裁縫にそれらを反映していくうちに、お針子のココはクチュリエールのシャネルになっていった。それを感じる事の出来る映画だった。

ファッションによって、凄く老けてごつく見えたり、凄く洗練された美人に見えたりしてビックリした。ココは自分に似合うファッションを発明したんだと思った。この辺りの演出も上手い。

ココの人生観、女性観、ファッション観が表出する度に、もし現代人が過去にトリップしてココの立場に立ったとしたら、ココのように感じたんじゃないのかなあ、なんて思ったり。(‘前’に実際に踏み出すかどうかは別・・・笑)。近代から現代に転換する時代を生きたココ・シャネル。世界の女性服の価値観を覆した彼女は、ファッションでもって近代人から現代人へと転換を促した偉大な女性だ。あたしはこの映画のように「新しい概念を獲得する瞬間」の話が大好きだ。パラダイムシフトが起こり、それまでとは違った世界が現れる。 。。素敵。

 

coldsweats01 公開されたけど、不評ですね~。自分と世間一般の認識がこれほど大きくズレる映画はめったにないので、色々なレビューを読むのが面白い。 smile

Coco03_2

shine覚書 ~ 時代背景、他 (ネット&以前読んだ本から)

ココ・シャネル(Coco Chanel、 本名はGabrielle Bonheur Chanel、1883年8月19日 - 1971年1月10日) : フランスの女性ファッションデザイナー。

◆エチエンヌ・バルサン(Étienne Balsan、1878年 - 1953年) : 裕福な実業家の家に生まれたフランス社交界の名士。有名な馬を所有する馬主。

◆ボーイ・カペル(Arthur Edward 'Boy' Capel) : イギリス人。フランス人銀行家の非嫡出子。ポロ・プレーヤー、石炭貨物で財を築いた実業家。

*上記3人のキャストも含めて、万人受けしそうな美男美女はキャスティングされていなかった。にもかかわらず、伏線と演出によって伝わってくるパーソナリティによって、各々が凄く魅力的に見えたから不思議だ。そして、各々のパーソナリティを形成した環境を切り取り描くことによって、当時の社会構造をも浮かび上がらせていた。

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シャネルが登場する前のファッション事情

フランスのファッション史

19世紀になると、フランス革命以後、ファッションは簡素志向になった。メンズは、イギリス貴族のシンプルなカントリー・スタイルが主流になり、男性の外見は、画一化していった。フランスの貴族文化は否定され、階級のシンボルであった色彩や装飾は排除された。レディスは、古代ギリシャ・ローマ風スタイルに流行のインスピレーションを求めた。このスタイルは、王妃アントワネットが率先して取り入れた。イギリスでは、綿工業を中心に産業革命が進展していた時期で綿や麻のシュミーズは大量生産され、瞬く間に広まった。宮廷人も貴族も、ロンドンのブルジョワジーと変わらない格好になり、ヴィジュアル的に階級差はなくなった。シュミーズはイギリスから取り入れた古代ギリシャ風のドレスである。以前まで使われていたパニエやコルセットはこの時代ほとんど使われなかった。

1820年~1840年にかけて、フランスでは、スタイルも18 世紀のものに逆戻りした。コルセットも25年ぶりに復活し、女性たちはX字型のシルエットに美を求めた。パリでは、エレガンスの覇権を争う社交界が隆盛を極め、貴族がモード界をリードし、数々の流行を生み出した。成り上がりのブルジョワジーにとって貴族的美意識はまだ十分に魅力的だったので、伝統的な貴族の「格式とエレガンス」は、社交界において十二分に発揮された。平等意識は存在していたけれども、階級意識は依然として変わらなく、ブルジョワジーも貴族的な生活に憧れ、少しでも近づこうとしていた。この時代には、「弱々しい女性がもてたため、酢を飲んでわざと自分を病弱に見せたりして、それにともない柄も地味なもの」が流行していた。

19世紀半ばになると、産業革命により生まれた「既製服」は、メンズファッションを地味なものにしてしまったが、レディスファッションは、逆に装飾性を高めていった。これは、男性が社会的地位を誇示するための道具として女性を利用したからである。だから、女性は命をかけて豪華な衣装を着飾り、愛する男性の「デコラティブな名刺」として仕えることに女としての喜びを見出していたのである。当時の女性が、コルセットを使うことで寿命が30代と言われている。リュウマチや貧血、冷え性に悩まされ、誰かとすれ違う時に肩が触れるだけで気絶しそうになっていた。その弱い体の姿が、当時にとって男性にもてる条件のすべてだった。女性たちは、そのために命をかけてコルセットをまとい、助骨を変形させてまでウエストの細さを競っていた。

1871年には、パリ・コミューンができ、史上初めて労働者と小市民による自治政府を樹立した。すぐにつぶされてしまったものの、世の中は近代市民社会へ移り変わりつつあった。パリ・モード界はいまだ宮廷文化の中にあり、王侯貴族を中心に新興ブルジョワジーで形成する上流階級の社交界に華やかさを競いあう場所でもあった。・・・全文を読む

◆19世紀末のフランスモード

1892年には、短い引き裾がつき、その後腰まわりがきつく、裾がいっそう広がる動きが始まった。釣鐘型スカートへの発展が始まったのだ。膝まではきつく、なめらかで、そこから広く、ひだがつき、長く広がってきた。引き裾は後方だけでなく、両横にもつき、1902年には、前方にまで裾をひいている、と言いたくなるほどの長さになった。そして、世紀末の時代は絹の下着に示されるように超贅沢を特色とした。

ブラウスが初めて登場したのは、1830年代の初めだったが、その特殊性は、当時は裁断よりもスカートをはっきり対照をなすべき生地の選択に合った。19世紀後半では、はじめてブラウスの特性はゆったりと垂れ下がり、どこにも身体に密着していない点だと認められた。

1898年頃、身頃とスカートを同じ反物で作るプリンセス裁断が再登場した。主として、エレガントな夜会服に適用された。プリンセスドレスは、ごく軽くてシースルーの生地でできていることが非常におおく、特に好まれる傾向さえあった。そして、1900年ごろ新しいコルセットが登場した。すらりとしているのがモードであるという考えから、腹部を締め上げ、横から見た体型は、モード上でいう有名なS字カーブになった。1910年には、スカートまでもがついに膝下の後ろ側をぎりぎりの幅につめてしまった。おかげで普通に歩けないほどだった。My_fair_lady婦人の衣装は、上半身には軽い絹の下着だけで、その下には何もきていないように見えた。ドイツではこれは一般的に「裸のモード」と呼ばれた。

1911年のロンドンを舞台にした「マイ・フェア・レディ」。オードリー・ヘップバーンの衣装にも時代が反映されている。

19世紀後半に発達したモードは、過去の世紀と比べて、場合に応じて服の種類が厳しく細分化された点で特に、異なっていた。トロッター・スーツは、午前中だけ、教会や訪問用には毛織物の服、儀礼的な訪問には非常にエレガントで豊かな訪問者、晩餐会には軽くデコルテになったもの、舞踏会やオペラには深いデコルテ、ホテル・レストランにはエレガント街着。午前中には暗色で午後には明色、というように分けられた。

19世紀末の数10年間に既製服は急速に普及し大きな影響力をもつようになった。既製服は非常に手際よく、必要性をある程度型にはめ、多くの女性の希望を満足させることに成功した。これによって、女性の服は変化に乏しくなった。そのさい、身分だけでなく年齢差もなくなった。・・・全文を読む

風邪が大流行するなどして衰退したファッション

ジェイン・オースティン(1775-1817)が小説を執筆していた1800年代前後には、芸術における新古典主義の影響やナポレオンの南欧遠征の影響などから、古代ギリシアやローマを意識した自然な身体のラインを利用したファッションが流行した。オースティン作品の映画などで登場するため、比較的よく知られているが、極端な薄着だったために風邪が大流行するなどして、まもなく衰退していった。
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後世では女性抑圧の象徴として捉えられがちだが発売当時は・・・

20080519 これまでのシルエットを保ったまま衣装の軽量化を可能にした金属性の「スケルトン・ペチコート」。軽くて弾力性のある金属をフープ状にして重ねた「下着」は、1856年に登場するや爆発的な人気を得て、瞬く間に労働者階級の女性に至るまで広く普及していった。

その鳥かご状の形からも、後世にはヴィクトリア時代の女性の抑圧の象徴として捉えられがちな「スケルトン・ペチコート」だが、発売当時は女性を重い下着から解放する革新的な発明だとして、おおいに歓迎された。

女性誌『英国婦人の家庭』にも、この金属製フープのおかげで「何枚ものペチコートの重さから解放され、またそれらが歩く時に脚に絡まりつくことの不自由からも解放された」と、賞賛の声が寄せられている。

*「スケルトン・ペチコート」もやがて「クリノリン」と呼ばれるようになる。

「クリノリン」が作る巨大なスカートは女性を殺す!?

女性たちの外出が頻繁になるとともに巨大なスカートによる交通事故や、引火事故など怪我人が続出し、1860年代に入ると死亡事故も起こるようになった。こうした事態を受けて、イギリス・ヴィクトリア女王までもが事態を憂慮する声明を発表している。

1867年にはクリノンを原因とする怪我人は年に2万人に、死者も3千人にのぼっているとして、『英国婦人の家庭』でも「ロングドレスは女性を殺す」と報告されている。

モラルという視点からも懸念の声が高まっていく。当時のイギリスは現代の基準に換算すれば年間30%ともいわれる高度経済成長を誇っていたが、女性達のファッションへの狂奔は、資本主義の発展がイギリス女性の美徳である「利他」の心を失わせている顕れであるとして憂慮する知識人も少なくなかった。

数年にわたり様々な方面から物議を醸したクリノンだが、1867年を期にあっけなくその姿を消してしまう。なぜこれほど急速に衰退したのか、当時の人々にも謎だったようで、新聞や女性誌でも、一様に疑問が持たれている。一般誌『ワンス・ア・ウィーク』は具体的に要因を指摘し、若い女性たちが新しいファッションを持ち込んだと指摘している。

理想とされたウエストサイズは17インチ(約42センチ)!? お洒落は我慢?

「クリノリン」と入れ替わるようにして「タイトレイシング」、すなわちコルセットでウエストを過剰に締めるという習慣が定着していく。服飾史家の一般的な見解では、これまでは巨大なクリノリンによって相対的に細く見えていたウエストが、その衰退とともに太く見えるようになり、その結果、コルセットによる極端な緊縛が始まったとされている。

クリノンが下火になる1867年に、当時最大の部数を誇っていた女性誌『英国婦人の家庭』にコルセットによるウエストの緊縛(タイトレイシング)の是非を問う投稿がなされている。問題の投稿を行った女性は寄宿舎に娘と面会したところ、青白い顔に蜂のようなウエストをして別人と見まごうようだ。驚いて教師に事情を尋ねたところ、当の教師が「タイトレイシング」を強要していた。教師は母親の心配をものともせず、こう主張する。

いまだかつてないほど細いウエストが流行しているんですよ。田舎女みたいな粗野で不恰好なウエストをした女性が、立派な方々とのお付き合いに加わることなどできるわけがありません。

投稿の反響は一般誌や医学誌にも飛び火し、ヴィクトリア時代を通じて続く国民的な「タイトレイシング論争」を巻き起こした。ヴィクトリア時代に発足した郵便制度を背景にして、全国各地の読者からの意見が各誌を賑わせている。

興味深いことには女性達が自らすすんでタイトレイシングを行っているという点だ。他方で医者や知識人はもとより、一般の男性にもこうした風潮に眉を潜めている者は少なくなく、彼らからの投稿もしばしば見受けられる。

タイトレイシング支持派に理想とされたウエストのサイズは17インチ(約42センチ)で、女性たちの文字通り血の滲むような努力が綴られている。「はじめの数日の苦痛は大変なもの」であるが、細いウエストを手に入れる喜びはそれを補ってあまりある、と成功の喜びを語る女性が毎号のように登場する。

いづれにせよ、マスメディアの発展や大衆消費社会の本格的な展開のなかで女性たちがはじめて、身体や下着について公然と語り始めたこと自体が注目されよう。身体を否定してきた西洋女性の美意識は、社会全体の急速な変化とともに崩れ始めたのだ。

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新しい病気「拒食症」

極端なタイトレイシングが流行するなかで、まもなく女性の健康に深刻な問題が生じるようになる。1872年にはロンドンとパリで相次いで拒食症が新しい病気として注目されている。「脇腹が切れた」、「気絶した」といった事故はもとより、貧血やヒステリーといった慢性病や、ついには死亡事故まで発生するようになった。

容姿への関心が高まった背景には自己客体化の手段の普及がある

イギリス・ヴィクトリア時代(1837年から1901年)になぜこれほどまでに容姿への関心が高まったのだろうか。その背景を考えると、第一にマスメディアの発展が挙げられる。

第二に、自己客体化の手段の普及が挙げられる。1845年に鏡税が撤廃されるまで、私たちに馴染みの平面ガラス鏡は大変な贅沢品であり、誰もが持てるものではなかった。1839年にフランスのダゲールによって発明された写真のインパクトも大きい。その後、写真館が増大し、肖像写真が普及する一方、女優のブロマイドなどが容易に手にはいるようになった。

こうして女性たちは自身の容姿をはっきりと客観視するとともに、美しいとされる身体の基準をも認識した。長く「内面の美しさ」が外見と密接に関係していると考えられていたが、こうして「外見の美しさ」が、内面から独立して評価されていくのである。

20世紀の身体意識へ・・・

タイトレイシングは20世紀にはいってもなお一部で続けられていたが、「正しい」身体教育を受けて育った少女達が成人するに従って、現代に繋がる拘束の少ない衣装や下着が着実に定着していった。

第一次世界大戦中には、シャネルが、膝下までの丈のスーツを発表し、20世紀ファッションの原型を提示する。シャネルは女性の膝は美しくないと考えていたため、パリのクチュリエたちも長くこれに従っていた。膝上のスカートが登場するのはミニスカートが旋風を起こす1960年代になる。

下着においても、拘束は確実にゆるやかになっていき、コルセットの上部が分離するような形でブラジャーが登場するなど、1930年代になると、現代女性の馴染みとなる下着の一式が定着した。

第二次世界大戦を経て女性の社会進出がいっそう進み、また住環境などの整備が進むなかで、アウターウェアとも変わらないくらいのファッション性を備えた下着が登場し、現代に至っている。

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◆フランス貴族の結婚観と恋愛観

結婚という社会制度は、恋愛よりも早く「発明」されている。結婚は子孫を残し家名や財産を引き継いでいくという社会的目的の上に成立し、恋愛は自由と人格の上に成立するものとして「発明」されている。十二世紀の社会構造(北フランス宮廷文化)からいって、成立条件が違うこの二つは、別ものとして存在していた。つまり、「結婚と恋愛は別」という考えを男女ともに持っていた。・・・これが近代の貴族文化にも引き継がれていた。

◆お針子は「娼婦予備軍」

19世紀後半、働く女性は軽蔑されていた時代だ。女性が敬意を持って遇されるためには、自立などしてはならなかった。だから没落貴族の娘はせいぜいガヴァネス(住み込みの家庭教師)になるしか道はなかったのだし、上流階級出身のフローレンス・ナイチンゲールが看護婦を志したとき、母親は卒倒しかけ、一族郎党、猛反対したのだ。ましてこのころの看護婦は、無教養で飲んだくれの最下層の老女か元娼婦しか成り手はいないと考えられていた。同じように、お針子は「娼婦予備軍」、オペラ歌手は娼婦と紙一重とみなされていた。実際、当時名を馳せた高級娼婦のうち、「椿姫」ことマリー・デュプレシは元お針子、彼女と人気で張り合ったコーラ・パールは元歌手である。

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オートクチュールパリ・コレクション

20世紀初頭までパリには多くの高級仕立て店が乱立しており、「オートクチュール」の規格も曖昧であった。イギリスからやってきたデザイナーのシャルル・フレデリック・ウォルトがこれらの高級仕立て店をシャンブル・サンディカ(パリ・オートクチュール協会)として組織化した。 

シャンブル・サンディカの設立により、それまで顧客の一方的な注文や、ある程度の規格の中から顧客が好みのデザインを指定して作ったり、デザイナーが客の希望を聞きながらデザインする服作りが、デザイナーがデザインしたものを顧客の体に合わせて仕立てて売るという『デザイナー主導』になり、顧客にとって「デザインを買う」=「芸術作品を買う」ということになった。単なるオーダーとの違いや芸術性から、デザイナーの社会的、芸術的地位が大いに高まった。一部の仕立て店はスカート丈や袖丈にいたるまで少しのデザイン変更も許さないと言われている。

オートクチュール・コレクションの歴史はベルエポックと呼ばれた文化的爛熟期の20世紀初頭にさかのぼる。オート(haute)クチュール(couture)を作り出し、高級衣装店協会を設立したシャルル=フレデリック・ウォルトが先頭に立ち、最高の素材と技術、芸術的センスで仕立てられる最高権威のコレクション「パリ・オートクチュール・コレクション」として1910年頃から開催されるようになった。それゆえに「パリ・コレクション」とは、もともとはこのオートクチュール・コレクションを意味する言葉であった。

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*ピエール・ジョゼフ・プルードン「貧困の哲学」 *カール・マルクス「哲学の貧困」 *フリードリヒ・ニーチェ *アール・ヌーヴォーからアール・デコへと転換 *ギャルソンヌ・ルック 

 

以下ネタバレありCoco05

ココ・シャネルの人生

Coco06 1909年(26才)、退屈しのぎで制作していた帽子のデザインがそこで認められ、エチエンヌ・バルサン の援助により、マルゼルブ大通り160番地で、帽子のアトリエを開業する。

1910年(27才)に、パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店。このときバルサンと別れ、同じ輪の中にいた、一生涯愛す人物となるイギリス人青年実業家アーサー・カペルとの交際をはじめる。カンボン通りの店の開設資金はカペルの助力によるものである。

1911年のロンドンを舞台にした「マイ・フェア・レディ」。オードリー・ヘップバーンの衣装にも時代が反映されている。

1913年(30才)に、ドーヴィルに二号店を開店。翌年に第一次世界大戦が開戦。

1914年から1918年 第一次世界大戦

1915年(32才)、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。シャネルは正式にオートクチュリエールとしてデビュー。翌年コレクションを発表し大成功を収める。ジャージー素材を取り入れたドレスが話題となる。

「着飾る為ではなく、生活していく、生きていくための服」
シャネルのジャージー・スタイル(1916)
Chanel_style

1918年(35才)に、第一次世界大戦が終戦。カペルがわずかな期間であった政略結婚を悔やみ、ココと幸せになろうと決意した矢先、翌1919年にカペルは事故死してしまう。

アーサー・カペルはココが生涯最も愛した人で結婚を切に願ったが、ココと共有していた上昇志向によって、カペルが政略結婚に対する欲望を持っていた為に、これまでかなわなかった。
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1919年(36才)、「ジャージー・スーツ」発表。

Chanel_no5_parfum 1921年(38才)、本店をカンボン通り31番地に拡張。前年に会った調香師エルネスト・ボーによって生み出された、シャネル初の香水「No.5」、「No.22」を発表した。今も世界中で愛されるシャネル定番の香水「シャネルNo.5」の大ヒットが、経済的な意味で大きな成功をもたらす起爆剤となった。(参考サイト

このころ劇作家のジャン・コクトー、画家のパブロ・ピカソ、作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーなどが集うサロンを主催するパリ社交界の女王ミシア・セールと出会い、サロンの様々な人物と交際する。(ストラヴィンスキー、身を挺してアヘン中毒から救ったジャン・コクトー、ロシア風の刺繍やビーズ飾りを使ったロシア・ルックを生み出すなどの影響を与えたロシアのドミトリー・パヴロヴィチ大公など)。ココはアーサー・カペルの死後悲嘆にくれたが、そんな彼女を元気付けようと連れまわしたのがミシアであった。

1924年(41才)、以降6年間に及び交際することになるイギリスのウェストミンスター公爵と出会う。彼から多くもらった宝石類から着想を得た、模造宝石を使ったジュエリーを発表。この間に、後に「シャネル・スーツ」として発表されるスーツの原型がつくられ、ロシアの詩人だったイリア・ズダネヴィッチが、工場長を務める間、1931-1934年にツイード生地の開発に取り組んだ。

1925年 パリ万国装飾美術博覧会

1926年(43才)リトル・ブラック・ドレス(黒一色で装飾の少ないドレス)を発表。それまで「黒」とは「喪服」のイメージしかなかった。その黒をシャネルはモード界で「個性を引き出す強い色」として黒一色でまとめたドレスを発表し、喪服のイメージから『最も無難で最もシックな永遠の流行の先端の色』として変えてしまった。

「女は、あらゆる色を思いつくが、色の不在だけは考えない。私は、黒はすべてを備えていると前から言ってきた。白もそう。どちらの色にも絶対的な美しさがある。」

1934年(51才)に、企業として順調に成長し続けるシャネル・ブランドは、アクセサリー部門のファクトリーを開設。翌年服地専門のファクトリーも開設した。

1935年(52才)、当時付き合っていたポール・イリブが急死してしまう。彼とはウェストミンスター公爵と別れた後交際していた。彼はファッションイラストなどを描く売れっ子イラストレータで、アーサー・カペル以来、結婚まで考えたようだ。ポール・イリブの急死は、その矢先の出来事だった。

Coco Chanel, 1935
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このように愛する人と、忌み嫌う愛人の座を捨てて幸せになろうとする矢先に、ことごとく相手が急死したり破産したりすることから、こういった運命を「獅子座の宿命を背負った女」と表現する人も多い。

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1939年から1945年 第二次世界大戦

1939年(56才)に、当時4000人を抱える大企業として成長したシャネルだったが、コレクション前の苛烈な労働条件に、労働者側がストライキを敢行。ココはあっさり一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖、一時引退する。以後、同年9月に勃発し1945年8月に終結した第二次世界大戦中と戦後のスイスへの亡命期(いずれも後述)の15年間、ココはフランスのファッション界で沈黙を守る。

1940年(57才)(第二次世界大戦中)にフランスがアドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍に占領され、親独のヴィシー政権下となった際に、フランス人の中には、レジスタンスとしてドイツ軍による軍事占領に抵抗した結果、捉えられた末に拷問されたり戦闘によって命を落とした人たちがいた一方で、シャネルはイギリス人の母を持つドイツ軍将校と愛人関係を結び、ホテル・リッツで生活を送った。このことから、1944年のシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス軍と連合軍によるフランス解放後に、対独協力者としてフランス中からの非難を浴びて、愛人とともに戦後の数年間スイスのローザンヌへ脱出し亡命生活を送った。この様な経緯から、現在でもシャネルを「ナチスに魂を売った売国奴」として嫌うフランス人がいる。

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1954年(71才)に、スイスへの亡命生活を終えパリに戻り、ヴァンドーム広場を望むホテル・リッツに住まいを構えファッション界へカムバックを果たす。ココの第二次世界大戦時の言動に対する嫌悪感が根強く残っていた当時は「古臭い」としてヨーロッパではバッシングを受けるなど散々だったが、「売国奴」と蔑まれたココやドイツへの嫌悪感が大戦後10年近い年月を経て薄まった上に、ウーマンリブによって女性の社会進出がめざましかったアメリカでは熱狂的に受け入れられる。

1955年(72才)、シャネル・スーツ(ブレードの縁取りがあるウールのスーツ)の発表。アメリカで「過去50年間でもっとも大きな影響力を与えたファッションデザイナー」としてモード・オスカー賞を受賞。

Romy_schneider 1962年(79才)、オムニバス映画『ボッカチオ'70』のエピソード3であるヴィスコンティ監督「仕事中」に出演したロミー・シュナイダーの衣装(右画像)を担当する。

1971年(87才)に、住居としていたパリのホテル・リッツにて、コレクションの準備中に87歳で亡くなる。

彼女は仕事が好きで寂しがり屋だったので、日曜日が大嫌いだった。彼女が亡くなった日は日曜日だった。

亡骸は第二次世界大戦中のドイツへの協力及びフランスへの裏切り行為によって高級墓地への埋葬を拒否されたこともあり、第二次世界大戦後に亡命生活を送っていたスイス・ローザンヌの墓地「ボア・デュ・ヴォー」(セクション9・No.130)に埋葬される。

'Staircase, Home of Coco Chanel, Paris' About 1925-30
Coco12_4

もし翼を持たずに生まれたなら
翼を生やすためにどんなことでもしなさい

美しさは女性の「武器」であり
装いは「知恵」であり
謙虚さは「エレガント」である

“シャネルのファッション”と言われるのは好きじゃないわ
シャネルは何をさておき 一つのスタイル
ファッションはすたれても スタイルは残るものよ

Coco Chanel, 1929
Coco09_2

 

*『ココ・シャネル』の感想 : こちらは、‘幼い頃から駆け出しの頃のシャネル’と‘晩年のシャネル’が交互に映し出される映画。

*映画を見た後に読んだシャネル伝記本、関連本。

 

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コメント

Hi Sakura!

オドレイ・トトゥのこっちのは
見てないけど
シャーリー・マクレーンの
「ココ・シャネル」は見たよ

オドレイのも見て比較してみたいな
なんて思った^^

投稿: nono1 | 2009年9月 5日 (土) 08時25分

Hi nono1 :)

あたしもシャーリー・マクレーンのも見てみたい! と思ってるところ
でもって
来年公開(?)の“Coco Chanel & Igor Stravinsky”(邦題未定) も見て比較してみたい ^^

投稿: さくらスイッチ | 2009年9月 5日 (土) 09時13分

<追記>
“Coco Chanel & Igor Stravinsky”の邦題は
『シャネル&ストラヴィンスキー』で
2010年お正月第二弾として公開決定していました

投稿: さくらスイッチ | 2009年9月12日 (土) 14時02分

こんにちはー。
日本では映画好きの人でもフランス映画が苦手っていう人が多いから、これも一般ウケはしないだろうと思っていましたが、案の定・・・
というわけで、さくらさんの高評価レヴューを発見できて嬉しかったですー。

>「新しい概念を獲得する瞬間」の話

なるほど。私もそういうのが大好きかもしれません。

記事内のフランスのファッション史もたいへん興味深かったです♪

投稿: かえる | 2009年9月22日 (火) 13時23分

★こんばんは、かえるさん。コメントをありがとうございます。

ココが持っていたファッションの価値観が、今現代に生きる自分のファッションにも影響を及ぼしている、と実感できる面白い映画でした。かえるさんも高評価で嬉しいです。happy01

投稿: さくらスイッチ | 2009年9月22日 (火) 18時57分

はじめまして。

むちゃくちゃ詳しい解説ですね。
なんか自分のレビューがとっても恥ずかしくなってしまいました。トホホ・・・。

コレも異端児な話なんですが
シャネルの香水ってN019だったか・・・が
ありませんでしたっけ?
昔、ダンナがグァムに行ったときのおみやげに
買ってきてあげよっか、って言うてくれたときに
NO5はあまりにも自分にはガラちゃうし
でもちょっと興味あるし、
もいっこ有名なのがあるからって
こっちにしてもらったことがあります。
アハハハハ・・・。

投稿: Ageha | 2009年9月27日 (日) 15時51分

★はじめまして、Agehaさん。コメントをありがとうございます。

解説というよりも、自分自身の覚書的要素が強いので、長々とまとめることなく書き連ねてしまってます。coldsweats01

誰かと被りそうな有名な香りより、ちょっと違う方がいいですよね。 

投稿: さくらスイッチ | 2009年9月27日 (日) 18時15分

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この記事へのトラックバック一覧です: 437: ココ・アヴァン・シャネル:

» ココ・アヴァン・シャネル [映画君の毎日]
<<ストーリー>>孤児院で育った少女時代を経て、酔った兵士を相手に歌うナイトクラブの歌手となったガブリエル(オドレイ・トトゥ)。その一方、つつましいお針子として、田舎の仕立屋の奥でスカートのすそを縫う日々に甘んじていた彼女は、将校のエティエンヌ・バルサン(ブ... [続きを読む]

受信: 2009年9月19日 (土) 00時05分

» ココ アヴァン シャネル [三十路女の奮闘記 ~キャラ顔ウーマン~]
久々に土曜日に友達と映画鑑賞を。 今年の目標だった、1ヶ月に三本映画をみる! 約束はどこへやら… まっ、観られるときにたくさんみるってことで。 で、今回観たのはこれ ココ アヴァン シャネル 世界のセレブ女性の心をつかんで放さない、 ココ シ... [続きを読む]

受信: 2009年9月21日 (月) 18時53分

» 『ココ・アヴァン・シャネル』 [かえるぴょこぴょこ CINEMATIC ODYSSEY ]
ココのシャネルのようにシックなフランス映画なの。 Coco avant Chanel、とはシャネルになる前のココの物語。アンヌ・フォンテーヌ監督作がワーナー配給で全国一斉拡大公開だなんてかつてないことなのだけど、それほどにシャネルというのは世界、日本でも広く関心がもたれるのが明らかな人気の題材なんだなぁということに感心。フランス映画が拡大公開される機会は少ないから嬉しいと思う反面、渋谷の単館でひっそり上映されていれば聞こえてこなかったであろう不満、批判の声を目にしてしまうのが、フランス映画好き... [続きを読む]

受信: 2009年9月22日 (火) 13時12分

» 見る人によっては、やなオンナに見えるだろうな~(笑)~「ココ・アヴァン・シャネル」~ [ペパーミントの魔術師]
ファッションという分野で 世の中に革命を起こした女性で、 それはとにかく先駆者ならではの風当たりでもって うけいれてもらうにはさぞ大変だったと思う。 でもさ~。 すんごい細かいことなんだけどぉ~ 現代にあってもコレはないんじゃない? 「くわえタバコで仕事す..... [続きを読む]

受信: 2009年9月27日 (日) 15時52分

» ココ・アヴァン・シャネル [小部屋日記]
COCO AVANT CHANEL(2009/フランス)【劇場公開】 監督:アンヌ・フォンテーヌ 出演:オドレイ・トトゥ/ブノワ・ポールブールド/エマニュエル・ドゥボス/マリー・ジラン/アレッサンドロ・ニボラ もし翼を持たずに生まれてきたのなら、 翼を生やすためにどんなことでもしなさい ココ・アヴァン・シャネルとはフランス語で「シャネルになる前のココ」という意味。 事前にある程度の知識があった方がいいし、フランス映画らしい恋愛重視って感じした。シャネルブランドの成功物語としてみてしまうとダメだ... [続きを読む]

受信: 2009年9月27日 (日) 22時18分

» オドレイ・トトゥ☆ 『ココ・アヴァン・シャネル / COCO AVANT CHANEL』 ☆ [honu☆のつぶやき 〜映画に恋して〜]
世界中の女性が憧れるブランド“CHANEL”。 その創始者ココ・シャネルの若かりし頃を描いたストーリーなら観ないわけにはいかないと劇場に足を運んだんだけど…。 期待していたようなサクセス・ストーリーとはちょっと趣が違ってて、どちらかというとラブ・ストーリーの...... [続きを読む]

受信: 2009年9月28日 (月) 23時48分

» 「ココ・アヴァン・シャネル」 シャネル以前のココの視点 [はらやんの映画徒然草]
2010年はシャネルの創業100年ということで、今年は創業者ガブリエル・"ココ" [続きを読む]

受信: 2009年12月27日 (日) 08時50分

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